東行庵の梅園に思う
めでたく立派で清らかな「令」。やわらぎ穏やかのどかで「和」。「令和」の元号が決まったのは平成31年4月1日で、改元は5月1日。令和元年(2019)となって丁度3年、果たして立派で穏やかであっただろうか。
この元号は『万葉集』巻二の「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」が出典だった。たしかあの時、菅官房長官は「日本の四季、折々の自然や文化を後世にとの願いを込め、春の訪れを告げる梅の花のように、明日への希望と共に一人ひとりが大きく花を咲かせたい」と、梅の美しさと香りのよさを表現したこの詩の引用を説明された。ここに「梅」がクローズアップされ、太宰府はひと時ブームとなった。
少し時期が過ぎてしまったが、今年の節分の日に東行庵から「梅園の紅梅がほころび始め2分咲きです。見ごろは10日過ぎでしょうかね」と電話を頂いた。その後、2月13日には「紅梅は盛りですが白梅はまだまだです」との電話も。
ところで2月中旬に冷え込みがあり、18日には「東行墓は薄っすら雪化粧ですが、梅の古木に白いカビのようなものがびっしり取りついて淡雪にも見えます!駆除の方法がなく実は困っている所です。枯れた木も多く5~6本新しく植え替えています。現在は5分咲き、今年は遅いようですね、月末頃が見ごろでしょうか?」と知らせがあった。
その2月18日の東行庵のインターネットの「お知らせ」には『いよいよ、梅の時期到来です。下旬が見ごろになると思います。・・禅の教えに「梅は寒苦を経て清香を発す」というのがあります。まさにこの時期に咲く梅そのものですね。高杉晋作はご存じのように苦難の道を経て明治維新の実現に尽くしました。萩から九州へと逃避するときは、谷梅之進と変名してのことですが、長男には「梅之進」(のち東一)と名付け、愛人「おうの」に贈った茶杓の銘は「梅處」でした。そうして初代庵主となった「おうの」は「梅処尼」、2代の庵主は「梅仙尼」と称しました‥とウメ尽くしで続きます。
月末が見ごろとあったが、2月22日に「東行庵に行ってみませんか」とのお誘いがあり同行。すでに新聞では紅梅のころ「梅のほころび」は報道されていたが、到着した車窓からの梅園に梅が咲いているという印象は全くなかった。
現地で梅園に入ると、確かに紅梅の数本は時期遅しという感じで、白梅の3本ばかりは樹勢も良く5分咲きと言ったところだが、他の木は実に哀れというか、電話で聞いていたカビと言っていいのか、ワカメが乾燥したような白けたものが巻き付いていて、樹木も窒息寸前、開花どころではないじゃぁないかと思ってしまった。
以前3代目の玉仙尼のころ、この梅園では「曲水の宴」が何度か催され華やかな賑わいもあったが、昨秋、玉仙尼33回忌が催行されたばかり、玉仙尼遷化以後は兼務住職さんが東行庵(史跡東行墓)を見守ってこられた。
特別に檀家がある訳でもなく、兼務住職さんでは境内のすべてをというのも難しいのかも知れないが、東行庵は風致地区、そして下関市内では大切な梅の名所であり、晋作が愛したウメだからこそ、何とか梅園の復活をと願いたいもの。植物に詳しい方のアドバイスがあれば今なら何とかなりそうなピンチ、3年前の「令和」の発表が、改めて「4月馬鹿」になってしまわないことを祈りたい。
写真は、東行庵梅園にはびこったカビのようなもの(左)とひっそりと咲いた梅の花
スイセンが見ていた
春先になると我が家の庭にも、どことなく水仙が咲き、これが良い匂いを漂わせ、花も可愛く、花瓶に生けても割に長持ちがするので重宝している。
スイセンは地中海沿岸が原産で園芸品種としては、イギリスなどで改良されラッパズイセン、大杯スイセン、八重咲スイセン、キズイセン、口紅スイセン、糸葉スイセンなど1万種以上の水仙が出まわっているといわれる。
我が家にも2~3種が顔を覗かせるが、なんといっても親しみのあるのは楚々としたニホンスイセンと呼ばれているもの。これは、シルクロードから東アジア、中国経由で鎌倉時代ごろ日本に伝わり、暖地海岸に野生化したという。
角島大橋の架橋前には、豊北町の附野薬師さん裏の畑あたりで、水仙の花を手前に鳩島から角島を背景に「春の北浦風景」季節感のある写真を撮影に出かけていたが、あるとき花がほとんど無くガッカリしたことがある。これは「蕾の内に切り花で出荷した」と聞いて、そのために植えられていたんだと納得したことがある。
現在は、角島灯台周辺の水仙が花の少ない時期に咲き観光客を集めている。広くは、福井県越前岬、千葉の房総半島、淡路島など、近くでは長崎の野母崎、ここは向かいに端島(軍艦島)なども見えて、違う趣もある。
大末和廣さんの著『合歓の花と河豚』《春・雨水》の項にスイセンが登場し「瀬戸内ではタコ釣りにスイセンの球根を使っていたそうです」とか「水仙は、花葉から球根の全部に毒があります、ヒガンバナ科の仲間、ニラやアサツキと一緒に間違えて料理をして食べてしまうと、30分以内に嘔吐や下痢、発汗などの症状が出て最悪の場合は死に至ります」などとあり、用心肝要。
さて、我が家の前の県道を隔てた向かいに空地がある。時々は雑草も刈られていたが、それも延び延びの状態が続いていた。昨年は、作業用の土を一時保管するために建築業者が借り受け、雑草を刈り作業用トラックが出入りした。その作業も昨年暮れまでには終わって、また放置状態になった。
新春を迎え、この空き地に緑が蘇る季節到来、そこには七草類もあるかも知れないが、ひときわ目立って、ぐんぐんと葉を延ばしてきたのがスイセンであり、殺風景な空地に叢生し、2月の半ばには花茎をのばして可憐な花が咲いた。
スイセンの花は6枚で白色、内側に黄色の小さな盃状の筒がある。その道に歩道があるからなのか、空き地には空き缶やポリ瓶が散らばっている。多年草のスイセンの花は、確かに人間社会を見ていたであろう。その黄色の副冠は、餌を待つツバメの子が賑やかに囀る様に、いかにも何か物言いたげに口をとがらせているように見える。雪中花とも呼ばれるスイセン、一茎毎に白い袴をつけ根元を乱さない、何か内に秘めた精気、自力で生き抜く力強さが感じられる。
草叢は無言、黙ったまま、まもなく多くの雑草の中にスイセンは姿を隠すであろう。
写真は、路傍の空き地に缶や瓶などが散らばり春先早く花開いたスイセン
「潮流・下関2021」展を回顧②-2 -綾羅木郷遺跡のこと-
企画展の「綾羅木郷遺跡」関係のメーッセジには、前回の他にも「現在の廃れていく文化財の現実に時代を感じますが、その時代を切りとられたグループSYSの活動に注目しておりました」「文化財は、その時に残すようにしなければ、無くなってからでは手遅れになることを学びました」「昔の写真がいっぱいで、でもドキドキしました」「郷台地の一件も、息をのむような緊張感です」「全く知りませんでした」「あの時、あの時間が蘇りました」「私は20代です。知ることの無かった当時の風景。写真で見ることができて有難う」「かっての綾羅木での闘いの日々のことを語り聞いていたことを思い出しました」「ブルドーザーが入り大変なことがありました、ベトナム戦争・・」「郷台地で起こったことは写真がなければ伝わらなかったと思います」などなど、郷台地の何をどのように感じられたのか、あるいはほかの写真からなのかはともかく、当時のことを思い出され、また若い方々は初めて知ったという感想でした。
私が、これらのメッセージを取り上げたのは、その後の会話の中で、直接に現在の小学校の先生が「郷遺跡であんな事件があったことを、全く知りませんでした」と聞いた時で、一寸愕然とし〝アッ!そうだったんだ″半世紀を経過していることで、あの郷事件伝承に中心となってほしい先生が・・郷事件を知らなかった・・と気が付いたことです。
郷遺跡については、緊急発掘(昭和40年=1965)の当時から、下関市民や高校・大学生たちがボランティアで発掘作業に協力し近所のご婦人たちもそれを支援されていた。それは1969年の春3月8日の蹂躙事件、3月11日の史跡指定まで4年間続いた。
私たちはキャンペーンを繰り返し、様々に展覧会を行い本や雑誌などにも掲載もされたが、結局は「それが何であったのか」ほとんど伝承していない。確かに下関市立考古博物館が郷遺跡に隣接して存在しているが、肝心のことは、なにも教宣にはなっていないと気が付いた。
半世紀前のことだが、大切な郷土の歴史の持つ意味について伝承することの重要さを痛切に感じたのが「海峡・下関2021」展覧会であったような気がする。
ところで、この件に関しては不思議なタイミングで『季刊考古学』(158号・2022.1・㈱雄山閣)が発行された。原稿は市立考古博物館から出稿されたのであろうが「考古学と埋蔵文化財」を特集し、その表紙に綾羅木郷台地の緊急発掘時でブルドーザーに追われる緊迫した写真が使用され、後記には「・・急展開で国指定史跡になり保存された。高度成長期において、遺跡の発掘調査は開発事業の障害でしかなかった。しかし、地道な発掘調査とその成果公開の積み重ねの上に、現在の埋蔵文化財行政があることを我々は忘れてはならない。このことを次世代に継承する意味も込めて本号の表紙を選んだ。(グループSYS撮影・下関市立考古博物館所蔵)」と記載されている。
昭和44年(1967)、55年前の3月8日の夜は、綾羅木郷の遺跡台上を11台のブルドーザーが蹂躙した事件のあった日(土曜日)で、その3日後の3月11日は緊急指定で「史跡・綾羅木郷遺跡」が誕生した日である。
後の、平成23年(2011)3月11日は、東日本大震災が発生し、2万2千人を超す多くの犠牲者を出した忘れられない日となっているが、その日を思い出すたびに、下関人は、もう一つの3月11日に関連する史跡綾羅木郷遺跡のことを思い浮かべ語り合っていただきたいと願っている。
こうした伝承は、考古学関係者だけでなく下関市あるいは市教育委員会のテーマとして、広く語り継がれていくための具体策をたて、取り上げてほしいものだと思う。
写真は「潮流・下関2021」展の郷遺跡展示部分と『季刊・考古学』の表紙


