突然の鳥取旅(2)-2 浦富海岸と伯耆国分寺石仏
今回一番の目的は、浦富(うらどめ)海岸の島めぐりで、最初が10時30分と聞いていたので、少し早めに遊覧船乗り場に到着した。そこで聞いたのは「今日は波が1.0m、それに西風ですから遊覧船は欠航です」日本海の日常これくらいの波は穏やかだと思っていたのでショックだったが仕方がない。陸からの展望場所などを聞いて観覧変更となった。
山陰海岸国立公園・日本百景・平成にっぽん観光地百選など、日本列島誕生の壮大なドラマが刻まれた地質遺産を感じることが出来る海岸線は、日本海の荒波と風雪が彫りあげた豪快な景観と聞いていたが、城原展望所と鴨ヶ磯展望所の駐車場からの海岸線や岩礁に砕ける白波を見て欠航はもっともだったかもしれないと納得もした。
花崗岩の小島群、或いは断崖に洞窟も見える、この国立公園には鳥取砂丘のなだらかな風景もあるが、細かい出入りの続く海岸線を実感したかったのだ。火山活動によって出来た北長門海岸国定公園とも違った優しさがあるように感じた。
さて、彼は中国観音霊場特別霊場の一つ、天台宗摩尼寺をお参りするつもりである。ここは素晴らしい場所ではあるが、以前に参拝したときの階段300段には躊躇していた。
いよいよ寺前の階段に近づくと、左側に車道らしき路があって彼はそこに車を乗り入れた。これはお寺に登る作業用の道路に違いはないがくねくねと谷筋を登って如何にか方向転換できる場所にたどり着いた。
申し訳ないと思いながら、観世音菩薩・帝釈天王を祀る千徳殿とよばれる本堂を裏口から回り込んで参拝した。さらに十王堂と三祖堂、奥まったところの善光寺堂などを巡った。サクラの花は満開、境内に「クマの出没にご注意」の張り紙もあった。喜見山摩尼寺は、創建・開山が慈覚大師・承和年間(834年頃)である。
もとに戻って階段を見上げると上の方に登る人を見かけた。下からは見えないが、この階段の中ほどには雰囲気の良い素晴らしい仁王門がある。この年では、やはり無理だと思った、以前は賑わっていた門前のお店はすっかり寂れた様子だった。
さて鳥取市内では、鳥取城のサクラを鳥取県庁の食堂(9階)から拝観、それから市内のわらべ館を再訪。ここは県と市の複合施設だが街に面した外観は、かっての図書館の一部を利用して残し、一歩入ると或いは側面から見るとまさに近代的な建築であり、その対比が印象深くもう一度観ておきたいと立ち寄った。受付に研修者がいたので「わかる範囲で建築と展示のことなど説明して頂けませんか?」とお願いしたら「私は昨日からなんですけど‥」といいながら、さらっと一巡しながら、建築の特徴と島根県出身の童謡作詞作曲者などの説明を受けた。これは研修者にとってもいい経験になったと思う。そしてもう一度再現された木造校舎6年1組などを見て、倉吉市に向かった。
倉吉では、折角ならと酒屋・油屋・米屋などが集中する古い町並みを再訪して、私の目的である社(やしろ)小学校前にあるという石仏を目指した。
小学校内正面の築山に「伯耆国分寺石仏」は置かれていた。何かの本でその表情が印象に残っていて、何時かチャンスがあれば実物を見たいと思っていての実現だった。
長方形の安山岩に彫られた5体の石仏で年代は不詳、明治末年国分寺跡で発見され小学校内に移転された。尊像名もはっきりしないが江戸時代後期のものと考えられ、経歴伝来など不明な点は多いがユニークな表情を持つ石仏は、国分寺基壇の石材を転用したことなどが評価され、県の保護文化財に指定されていると説明板にあった。
或いは、山口県にも多い木喰上人の作かもしれないと本に記さていていたことからの確認だったが、なるほどその表情が似ている。県内作は木彫である。「なんで?」という疑問を感じながら「あるいは木喰仏だよなぁ」と一人合点して引き上げた。
この日、吉岡温泉(ここはやや低温)に泊まり、翌日帰関。旅に出ても、コロナ感染と横暴にエスカレートするロシア侵攻の情報は離れず付きまとっていた。
写真は浦富海岸(右)と伯耆国分寺石仏
突然の鳥取旅(2)-1 石谷家住宅と七釜温泉
急なお誘いで鳥取県まで2泊3日の旅をした。ともに、すでに何度か主な場所は訪ねているが、彼は気になる温泉地、私は浦富海岸と倉吉の石仏を希望して出かけた。
本州西端の下関から鳥取県東北端の浦富は流石に距離があって、行きは中国自動車道で津山まで約400㎞、それから鳥取市街地を抜けて浦富まで80㎞、彼が求めていたのは兵庫県の七釜温泉、初日は約500㎞走ったことになる。帰りは海岸線、途中に無料区間という山陰道があり、これも利用しながら、ほとんどは国道9号線を利用した。
このコースでの見聞を書き留めておこう。
津山ICから国道53号を北上し那岐山(1240)の東、黒尾トンネルを過ぎると八頭郡智頭町になる。周囲は1000m級の山々が連なりその山峡の川が合流して千代川となり鳥取砂丘を育む源流である。面積の93%が山林の豪雪地帯という智頭の町は標高200m余り、因幡街道、備前街道と交錯する鳥取藩の宿場町、鳥取市内から約30㎞南にある。
この宿場町の「石谷家住宅」が、近世から近代への建築技術の粋を伝える歴史的建造物といわれ国の重要文化財になっているので寄ってみた。
敷地面積が約3000坪(900平方m)、広大な池泉式日本庭園を築き、これを囲むように40の部屋と7棟の蔵を連ねた木造家屋で、大正8年(1919)から約10年の歳月をかけて貴族院議員の石谷伝四郎が新築したという。現在は町に寄贈され公開されている。
玄関を入ると、広大な豪農の造りの土間から一段上がった囲炉裏の間などは約14mもある吹き抜けになっていて。松の巨木の梁組が見え、土間の横には帳場もある。2階への階段の手擦りの細工も見事だし、仏間、神殿の間などの設えはまさに住宅の域を超えている。天井、欄間、調度品、坪庭など当時の面影がそのまま伝わってくるものがあった。
初日の宿は、梅千代日記で有名な浜坂温泉郷を構成する温泉の一つ七釜(しちかま)温泉で、兵庫県では唯一国民保養温泉の指定を受けた、療養・保養・休養に適した健全な温泉地といわれている。源泉は、51.2℃、pH7.2、ナトリューム・カルシュームを含んだ硫酸塩高温泉で「炬燵いらずの温泉」といわれているという。
町の入り口に、七釜温泉の表示はあったが雑然として温泉町の雰囲気はない。路傍にひっそりとおかげ地蔵があり、私たちが予約していたA荘は入り口のモクレンが満開で先ずは雰囲気も良かった。
大阪の商人が別荘として建てたこじんまりした宿で、若夫婦が経営していた。
最初に説明されたのが、お風呂のことで「温度は45℃位でちょっと熱いですよ。水で冷やされても構いませんが、少しずつ足元からかけてなれると、中に入って動かず、熱いのを我慢してじっと入るのが、ここのお湯の楽しみ方です」というのである。
なるほど熱い。掛り湯を水で冷しながら慣らして、ここの流儀にしたがった。
主人は浜坂漁港の卸免許を持ち直接魚を仕入れているという。ズワイガニのシーズンを過ぎて、この日はノドグロとホタルイカが料理の主役だった。旅館は11軒あるが営業しているのは半分くらいと聞いた。
翌朝は、温泉のこの熱さに慣れた感じで爽快ささえ感じたのは不思議だった。
お天気は快晴、心配した波は1.0mと予報を聞いた。
写真は石谷家の住宅庭園(右)と七釜温泉宿に咲いていたモクレン
街路樹の悲哀
もともと植物に興味があるわけでもなく、その名前さえ良く分からないが、街中を歩きながら街路樹の様子に思いをめぐらせることがあるので、今回は三種類の植物について書き留めてみたい。この切掛けは、市内の伊崎町を歩いたとき、高さが1m程に切られた街路樹に出会ったことにある。
伊崎は古くから集落があり、源平合戦のとき漁師組合の中島四郎太夫らが小門海峡に仕掛けた網に安徳帝の御尊骸が掛かった伝説がある。御遺骸を引き上げて安置したところが御浜殿で、現在は赤間神宮の御旅所であり、中島家は先帝祭の上臈参拝では真っ先に参拝される家柄である。
以前は、幅が2mほどの路地を挟んで格子戸の家並みが2列に続いていた漁師町で市内では戦災にも遭わなかった雰囲気のある町で、その海側の家並の裏側が埋め立てられ広い道路が出来た。もちろん、住宅に添って歩道が出来て、そこに街路樹が植えられたのはコンクリートの照り返しを防ぎ、海風の涼しさを保つためでもあっただろう。
切られた後ではどんな木だったのか良く分からないが、イブキにも見えるその木はずんぐりもっくりと大きくなって、人が歩くにも支障があったのだろうか、直径20㎝にもなった幹がずらりと並んでいて、専門家が作業されたであろうが「これほどまでに」と驚いた。この幹から再び蘇生し見事な街路樹となることを期待したいと願っている。
ところで、街路樹として華やかなのは赤間町から幸町に抜ける赤間本通りの桜並木ではないだろうか。この一帯に守護神として信仰を集めていた稲荷神社に由来した稲荷町があった場所で、寛政4年(1792)の人別帳によれば稲荷町の戸数は11戸、人口は237人、男女別では男28人、女209人。天保9年(1839)でもその男女比にアンバランスな感じがあるのは、この一帯が廓街という風俗の町、ただ平氏一党、生き残った官女がこうした生活を選んだことで、全国的にも品位、格式の高い遊び場、花町といわれた。その語呂合わせでもあるまいが、戦後ソメイヨシノが植えられ、見事なサクラトンネルに発展し、花の時期は美しく景観は最高だった。夏には葉桜となり木陰で涼しくはなるが一帯は暗くなってしまう。大型の車は通行に、或いは桜の根が舗装を持ち上げ水道管や下水管にも支障を及ぼすようになって、一時期、部分的に伐採され、現在でも枝切りなどが行われ、随分すっきりしたサクラトンネルになった。横断する電線などが見えるようになってサクラ見物としては少しばかり減滅ではある。
街路樹、その功罪はさまざまであろう。広い場所での植樹なら植えられる樹も嬉しかろうが、狭い街路で周囲まで舗装され、肥料や水分補給もない、ましてや自動車の排ガスを浴び、伸びた枝は不要だからと剪定される。脱炭素社会に光合成する植物は良いと言われても、木だって不老不死ではない。
田中町の街路樹で、そんなストレスを抱え込んで悲鳴を上げているのではないかと思われる大きい瘤の出来たスズカケノキ?を見かけた。
写真は左から伊崎町、赤間通り、田中町の街路樹。


