街路樹の悲哀
もともと植物に興味があるわけでもなく、その名前さえ良く分からないが、街中を歩きながら街路樹の様子に思いをめぐらせることがあるので、今回は三種類の植物について書き留めてみたい。この切掛けは、市内の伊崎町を歩いたとき、高さが1m程に切られた街路樹に出会ったことにある。
伊崎は古くから集落があり、源平合戦のとき漁師組合の中島四郎太夫らが小門海峡に仕掛けた網に安徳帝の御尊骸が掛かった伝説がある。御遺骸を引き上げて安置したところが御浜殿で、現在は赤間神宮の御旅所であり、中島家は先帝祭の上臈参拝では真っ先に参拝される家柄である。
以前は、幅が2mほどの路地を挟んで格子戸の家並みが2列に続いていた漁師町で市内では戦災にも遭わなかった雰囲気のある町で、その海側の家並の裏側が埋め立てられ広い道路が出来た。もちろん、住宅に添って歩道が出来て、そこに街路樹が植えられたのはコンクリートの照り返しを防ぎ、海風の涼しさを保つためでもあっただろう。
切られた後ではどんな木だったのか良く分からないが、イブキにも見えるその木はずんぐりもっくりと大きくなって、人が歩くにも支障があったのだろうか、直径20㎝にもなった幹がずらりと並んでいて、専門家が作業されたであろうが「これほどまでに」と驚いた。この幹から再び蘇生し見事な街路樹となることを期待したいと願っている。
ところで、街路樹として華やかなのは赤間町から幸町に抜ける赤間本通りの桜並木ではないだろうか。この一帯に守護神として信仰を集めていた稲荷神社に由来した稲荷町があった場所で、寛政4年(1792)の人別帳によれば稲荷町の戸数は11戸、人口は237人、男女別では男28人、女209人。天保9年(1839)でもその男女比にアンバランスな感じがあるのは、この一帯が廓街という風俗の町、ただ平氏一党、生き残った官女がこうした生活を選んだことで、全国的にも品位、格式の高い遊び場、花町といわれた。その語呂合わせでもあるまいが、戦後ソメイヨシノが植えられ、見事なサクラトンネルに発展し、花の時期は美しく景観は最高だった。夏には葉桜となり木陰で涼しくはなるが一帯は暗くなってしまう。大型の車は通行に、或いは桜の根が舗装を持ち上げ水道管や下水管にも支障を及ぼすようになって、一時期、部分的に伐採され、現在でも枝切りなどが行われ、随分すっきりしたサクラトンネルになった。横断する電線などが見えるようになってサクラ見物としては少しばかり減滅ではある。
街路樹、その功罪はさまざまであろう。広い場所での植樹なら植えられる樹も嬉しかろうが、狭い街路で周囲まで舗装され、肥料や水分補給もない、ましてや自動車の排ガスを浴び、伸びた枝は不要だからと剪定される。脱炭素社会に光合成する植物は良いと言われても、木だって不老不死ではない。
田中町の街路樹で、そんなストレスを抱え込んで悲鳴を上げているのではないかと思われる大きい瘤の出来たスズカケノキ?を見かけた。
写真は左から伊崎町、赤間通り、田中町の街路樹。
