吉田の神楽団
今年は、制限解除の大型連休となったが、まだまだコロナ感染が燻っていて下関でも先帝祭の上臈道中は中止され、何となく活気を感じなかった。
それでも「5月1日に赤間神宮で蛇踊りがあるそうな」と聞いた。「蛇踊り??」何だかはっきりしなかったが、ともあれ出かけてみた。安芸高田市(人口約26000人)の吉田神楽団による神楽奉納だった。
吉田町といえば、毛利元就が宗家を継いで郡山城を拡大し要害として中国地方計略の根拠地としたところであり、いわば長州としては関り深い場所である。赤間神宮では、水天門の内側に急拵えの舞台に万幕が張られ、正面中央には一三つの毛利の紋があった。
奉納神楽の演目は、子供神楽「土蜘蛛」と吉田神楽団「八岐大蛇」である。
「土蜘蛛」は謡曲を神楽化したもので、胡蝶という侍女に化身した土蜘蛛が源頼光に毒を盛ろうとして見破られ退治される筋書きで、神楽団の中でも主要な演目であろう。
子供神楽は、中学3年生までの団員で現在は12名と聞いた。囃子方に7人が並んでいて、締め太鼓を打つ可愛い小さな子が並んでいて驚いた。左端の中学生女子であろうか甲高い笛の音に始まる囃子方のリズムに乗って、豪華絢爛な衣装をまとった頼光が登場し口上を述べて中央の幕内に入る。続いて侍女が現れ、ここからの展開は鉦や太鼓の流れに乗ってこの地方独特の舞が始まり、頼光に近づき胡蝶の正体が見破られると舞いながら上着を脱ぎ棄て、振り向いた瞬間に般若の面をつけた恐ろしい形相に変わる、この早業は見せ場であり見事であった。胡蝶の衣装と面はさらに変わり、途中で中央天井からすだれ状の蜘蛛糸が落ちる見せ場などもあって、最後に土蜘蛛は退治される。扇や刀など演技にすこしの稚拙さを感じたが、35分の熱演に観衆から盛んな拍手が送られた。
そのあと休憩があって、いよいよ神楽団による「八岐大蛇」(蛇には違いないが)。
中国地方では代表格の神楽で『記紀神話』の素戔嗚尊(スサノオノミコト)が大蛇退治をする、櫛名田比売命(クシナダヒメ)との婚姻譚にちなむもので、酒樽を担いだ老夫婦(アシナヅチ、テナヅチ)と娘(クシナダヒメ)が登場から始まる。高志(コシ)の八岐大蛇の悪行を聞き、娘をもらい受ける約束をして勇躍して大蛇退治にかかる。
あの狭い舞台に、8匹の大蛇が登場、とぐろを巻き、たる酒を飲み干し鎌首をもたげ、素戔嗚尊と激しく所狭しと立ち回る、神話の世界から民衆の心の中に、それは誰もが知っている物語だが、演劇的に神楽が進行して行く演技の見事さは圧巻だった。
最後に舞台出演の団員が挨拶されたのは14名だったが、昭和47年に結成され、団員の日常は各々仕事や勉学に励むもので、神楽を職業としている者はいない。現在24名と聞いたが、神人和楽という神楽の本質を求め日々練習に励み、さらに子供神楽団の育成にも力を入れているメンバーである。レパートリーは、高田系八調子、記紀物のほか元就公や羅城門など約20ばかりの演目があるとか。
安芸吉田市内の美土里町には、平成10年にオープンした収容人員2000人の神楽ドームの門前町として温泉や料理屋、茶店などが並ぶ「神楽門前湯治村」があり、神楽ドームでは同市内の22神楽団が順次、発表の場として公演が行われている。
私は以前、ここを訪ねたとき「この地が元気になれるのは農村の風土を反映する神楽でしかなかった。手作りで泥臭くっても心が反映してるのよ。神楽を見せたいと思ったのは、この地が発祥という『新舞』(伝統的な旧舞に対して、テンポが速く華やかさがある)にあります。あれは神楽ではないという人もありましたが、人が喜んでくれ神様が楽しんでもらえば良い、若い団員も入ってくれるんです。今では北島三郎のチケットをさばくのは大変だけど神楽大会のチケット入手は大変、神楽団のスターには追っかけもいるようです」などと、その門前湯治村々長さんが話されたことを思い出した。
今回も、懐かしくその新舞の片鱗を見させて頂いた。
写真は赤間神宮で奉納の吉田子供神楽「土蜘蛛」(左)と吉田神楽団「八岐大蛇」から
仁馬山古墳
綾羅木川の北側、条理の痕跡を残す田畑の向こうに標高20m程の洪積台地が続きその東端に近い延行の南側斜面に、国指定史跡(平成3年5月15日指定)の前方後円墳「仁馬山古墳」がある。台地の西端までは2㎞足らずで、やはり国史跡の綾羅木郷遺跡となる。この丘陵地は鬱蒼とした林の中に数多くの遺跡があり『遺跡の道』と呼ばれ、遺跡探訪の散策路になっていた。
ところで、その仁馬山古墳南側の竹林が本年1月から2月にかけて伐採され、まさに古墳は丸裸となった。私は3月になってから考古学者の伊東照雄さんから「古墳の姿が見えますよ」との葉書を頂いてこれを知ったが、新下関駅西側の新県道259号線から長安線(県道247号線)の有富に通じる新しい道路に入るとすぐに綾羅木川を超える落合新橋を過ぎるが、この辺りから真正面にその姿が見られのである。
それは古墳の大きさや形態が感じられるだけでなく、1500年前この地を支配した首長の存在を彷彿させる景観だった。(下関市立考古博物館によれば、県の里山整備予算で伐採をしたが継続の予算もなく暫くこの状態が続くとの話だった)
仁馬山古墳は、明治35年(1902)には所在が報告されていたが、下関市は昭和48年(1973)に山口県の応援を受けて墳丘の実測調査を行なったものの、本格的な発掘調査は平成17年から20年(2005~2008)にかけ4次にわたり古墳の築造経緯から構築方法などが行なわれた。
古墳の近くにある説明板には『築造時期は4世紀後半、下関地域では最も古い古墳の一つで、残存状態は極めて良好、後円部は大きくて高く、前方部は低くて短い古い形状である。前方部を西に向け主軸は西北西、全長75m、後円部の直径47m、前方部の幅23m。墳丘前方部は2段、後円部は3段築成で、外部施設としての葺石や埴輪は認められなかったが、部分的に円筒埴輪が建てられていたと考えられる。埋葬主体は直径約1m、長さ約6mの巨大な割竹型木棺を大量の粘土で覆った粘土槨(ねんどかく)と呼ばれる構造でほぼ完全に残存し、粘土の表面には棒で突いたり叩いたりした痕跡が残っている。前方部左右に陪塚を持ち、仁馬山古墳の被葬者は古墳の規模や主体部の構造などから、当地域を統治した首長で大和政権と密接な関係を持った人物であったと推考される。』(山口県教育委員会・下関市教育委員会)などと平面図を添えている。
山陽本線「長門一の宮駅」と交差した山陽新幹線の開通で、駅名は「新下関駅」となり、主要道路も駅から西に県道259号線が、伊倉、川中、山陰本線をこえ綾羅木につながると、忽ち「ゆめタウンゆめシティ」ほか大型店舗や食事処などが立ち並び、下関新市街となった。その北側を流れる綾羅木川を越えてまではまだその侵略?はない。
このあたりは、弥生時代からの文化を伝え、長門国府を支えた穀倉地帯として重要な役割を果たした条理制度の遺跡である。綾羅木川河畔、観月橋あたりから落合新橋あたりに立つと、まだ見ることのできる広大な農地を見下ろし、仁馬山古墳から延びる遺跡群に思いをはせ、背後の新市街の建物までを転観するとき、その悠久の歴史を感じるのは私だけではあるまい。さらに、そこに流れる綾羅木川上流では恐竜の卵も発見されている。
写真は、落合新橋あたりから住宅背後に見える仁馬山古墳
旅の記念品32 -球磨焼酎のガラとチョコ-
お酒は、嫌いでもないが、好んで飲まなくてはならぬほどでもない。会社勤めや友人同士、お客様接待、花見や忘年会、写真の取材先あるいは時に晩酌などで長い間には、様々なお酒と関わって来た。大酒飲みではなく、雰囲気で飲むタイプかも知れない。ただ一杯飲んだ時の爽快感、料理にぴったりの味わい、話が弾む雰囲気などで、辛口や甘口、匂いクセなどが好みになって来るのであろう。ワインの場合は、その薀蓄を語る人もあるがそのお酒が生まれる風土を感じる楽しみはあるが、私は聞き流す程度である。
さて、大分県国東の取材でお寺に泊めて頂いたときドブ酒を飲まされることがしばしばあった。戦後のヤミ市では何とも判らない醸造酒や粗製アルコール或いは濁酒を蒸留した密造酒(カストリ)などが出まわっていたことを聞いたこともあって、甘酒とは違った、ちょっと酸っぱいそのドブ酒を、なんぎ難儀で頂きながら和尚の話を聞いたものだ。
もともと焼酎は、場末の縄のれんを潜り「焼酎一杯」と注文する「癖のある安い酒」というのが先入観で、事実、その原料によって甘藷焼酎・そば焼酎・麦焼酎などがあって、特に芋による薩摩焼酎の匂いは強く、下関ではあまり好きになれなかったが、鹿児島の現地で郷土料理と一緒に芋焼酎を頂いたときは、なんと美味しい味だったのに驚いたことがある。ところで、球磨地方に産する米焼酎は原料銘でなく産地名で「球磨焼酎」と呼ばれている。フランスのコニャックは、コニャック地方で産するブランデーに限ってコニャックと呼ばれているのと同じある。球磨焼酎は、400年前から米を原料にしている日本独特のブランデーと言っても良い。
私が、癖のない球磨焼酎を知ったのは球磨川と落人集落を訪ねたころである。後に会社の同僚たちが社員旅行の縁で球磨盆地周辺に散在する酒蔵32業者70数銘柄を訪ねたことに感激し、後に「ラベル」を張った『球磨焼酎のみある木』をいう50部限定の本を作るお手伝いもした。それ以来、球磨焼酎のフアンになっている。
人吉盆地一帯は、相良藩2万2千石だが実質10万石とも呼ばれる。この地の厳しさ、今でも水害常習地だが、球磨川の急流を遡ってようやく人吉にたどり着いた幕府の検地役人は、それより東へ足を踏み入れることが無かった。人吉の大稲田はそこに広がり米の宝庫になった。藩ぐるみの稲作地域となり、余剰米での焼酎は自然の形で育ち相良藩の隠匿財産となった。ライン川流域をワイン・バレーと呼んでいるが、いわゆる「球磨川流域は焼酎バレー」と名付けた人(学習院大・加藤教授)があった。
当時、流通していた銘柄を少し六調子・武者返し・相良・鬼倒し・文蔵・白岳・繊月・清球などなど・・。焼酎ブームが始まった昭和30年代後半、少し遅れて球磨焼酎酒蔵組合は酒蔵32社の原酒をブレンドして、そのものずばり「球磨焼酎」のラベルを張って都会に送り出したが、たちまち年間20%台の伸びを見た人気上昇だった頃、関門北九州地方では話題になっても「球磨焼酎」は流通になく手に入らなかった。
記念品を語らなければならないのだが、何時、何故、何処で手に入れたのか「球磨のガラ(とっくり)とチョコ(猪口)が手元にある。ガラは球磨特有の徳利で注ぎ口が細い。これに対するチョコは直径が2㎝ほどの可愛らしいもので、ほんの一啜りで飲むことができるほどのものである。
球磨では、一杯注したらもう一杯となりそれから返杯の習慣がある。また球磨拳という酒宴の余興もあり、これは指の出し合いでの勝負で、あのチョコで焼酎を飲むのだが、いくら小さいとはいえ負けが過ぎるとすざまじいことになりそうだ。
このガラとチョコは使ったことも無く、焼酎はガラスコップでの水割りである。
写真は繊月酒造(旧・峰の露酒蔵)の酒蔵と球磨焼酎の酒器「ガラとチョコ」


