仁馬山古墳 | Issay's Essay

仁馬山古墳

690 落合新橋あたりから住宅背後に見える仁馬山古墳

 綾羅木川の北側、条理の痕跡を残す田畑の向こうに標高20m程の洪積台地が続きその東端に近い延行の南側斜面に、国指定史跡(平成3年5月15日指定)の前方後円墳「仁馬山古墳」がある。台地の西端までは2㎞足らずで、やはり国史跡の綾羅木郷遺跡となる。この丘陵地は鬱蒼とした林の中に数多くの遺跡があり『遺跡の道』と呼ばれ、遺跡探訪の散策路になっていた。
 ところで、その仁馬山古墳南側の竹林が本年1月から2月にかけて伐採され、まさに古墳は丸裸となった。私は3月になってから考古学者の伊東照雄さんから「古墳の姿が見えますよ」との葉書を頂いてこれを知ったが、新下関駅西側の新県道259号線から長安線(県道247号線)の有富に通じる新しい道路に入るとすぐに綾羅木川を超える落合新橋を過ぎるが、この辺りから真正面にその姿が見られのである。
 それは古墳の大きさや形態が感じられるだけでなく、1500年前この地を支配した首長の存在を彷彿させる景観だった。(下関市立考古博物館によれば、県の里山整備予算で伐採をしたが継続の予算もなく暫くこの状態が続くとの話だった)
 仁馬山古墳は、明治35年(1902)には所在が報告されていたが、下関市は昭和48年(1973)に山口県の応援を受けて墳丘の実測調査を行なったものの、本格的な発掘調査は平成17年から20年(2005~2008)にかけ4次にわたり古墳の築造経緯から構築方法などが行なわれた。
 古墳の近くにある説明板には『築造時期は4世紀後半、下関地域では最も古い古墳の一つで、残存状態は極めて良好、後円部は大きくて高く、前方部は低くて短い古い形状である。前方部を西に向け主軸は西北西、全長75m、後円部の直径47m、前方部の幅23m。墳丘前方部は2段、後円部は3段築成で、外部施設としての葺石や埴輪は認められなかったが、部分的に円筒埴輪が建てられていたと考えられる。埋葬主体は直径約1m、長さ約6mの巨大な割竹型木棺を大量の粘土で覆った粘土槨(ねんどかく)と呼ばれる構造でほぼ完全に残存し、粘土の表面には棒で突いたり叩いたりした痕跡が残っている。前方部左右に陪塚を持ち、仁馬山古墳の被葬者は古墳の規模や主体部の構造などから、当地域を統治した首長で大和政権と密接な関係を持った人物であったと推考される。』(山口県教育委員会・下関市教育委員会)などと平面図を添えている。
 山陽本線「長門一の宮駅」と交差した山陽新幹線の開通で、駅名は「新下関駅」となり、主要道路も駅から西に県道259号線が、伊倉、川中、山陰本線をこえ綾羅木につながると、忽ち「ゆめタウンゆめシティ」ほか大型店舗や食事処などが立ち並び、下関新市街となった。その北側を流れる綾羅木川を越えてまではまだその侵略?はない。
 このあたりは、弥生時代からの文化を伝え、長門国府を支えた穀倉地帯として重要な役割を果たした条理制度の遺跡である。綾羅木川河畔、観月橋あたりから落合新橋あたりに立つと、まだ見ることのできる広大な農地を見下ろし、仁馬山古墳から延びる遺跡群に思いをはせ、背後の新市街の建物までを転観するとき、その悠久の歴史を感じるのは私だけではあるまい。さらに、そこに流れる綾羅木川上流では恐竜の卵も発見されている。
 写真は、落合新橋あたりから住宅背後に見える仁馬山古墳