火の山の観光とチューリップ園
令和4年(2022)2月24日、何とも傍若無人の戦争?が始まった。それは一方的なソ連軍のウクライナへの侵攻である。
これに対して日本は、両国と良好な関係を保っているトルコ共和国に、岸田首相の特使として林芳正外務大臣が訪問し、侵攻を止め和平を進めることの仲介を求めた。林外相はその後すぐにポーランドを訪問して日本への避難を希望する希望者20名を連れ帰った。それからまたG7に出席、このところ林大臣は獅子奮迅の活躍である。
そのトルコ共和国のイスタンブール市と下関市は、昭和47年(1972)5月16日に姉妹友好都市を提携している。そして35周年となる平成19年(2007)には同市から記念にチューリップの球根5万球が下関市に寄贈された。これを基に平成21年(2009)に火の山公園トルコチューリップ園が開園し、チューリップ園は通称名を『オルハン・スヨルジュ記念園』として平成26年(2014)4月11日に記念碑も設置されている。
チューリップは、バレリーナ・フライアウエイ・ガボタなど6~7種類、それにパンジー・ビオラ・ネモフィラなどが、火の山ロープウエー下駅横の関門海峡が見える斜面にボスポラス海峡をイメージして毎年デザインを変更し植え付けられ、流れるような花の絨毯となる。それもサクラの開花期にはより華やかさを増し観光客を楽しませているが、今年のデザインは「未来への夢・希望・想い」をイメージしたという。
今年は、サクラの満開が少し早く、これに白色系のチューリップ、ロイヤルバージンが同調して咲き誇っていたが、他のチューリップは花の競演にやや遅れた感じだった。それでも観光客は駐車場(土・日は頂上も)の渋滞に苛立ちながら火の山に押し寄せていた。
火の山山頂からの関門海峡パノラマは、源平合戦、明治維新などを彷彿する風景で、以前は回転レストランのある展望台があって下関観光の重要な施設だったが、老朽化に加え台風被害に遭って平成28年(2016)年度に閉館、解体後には入札不調で再整備の計画は中断され、その時以来バリケードが置かれたままである。
下関市長は、2~3年前から火の山再編整備基本構想とか下関市3エリアビジョンなどと計画や構想を連発され、今年度は火の山地区の観光施設再編整備に1億1千万の予算が組み込まれた。そこは瀬戸内海国立公園を形成する場所である誇りと認識を持ってきめ細かな施策をしてほしいものである。
ただ、構想はともかく何時も火の山に出かけている者にとっては、目に見える形で観光客に好印象を与えることも考えて頂きたいものである。
例えば、ロープウエー上駅の建物は火の山頂上の玄関である。ガラスは綺麗であってほしいし、2階も空き家同然、親切な観光ギャラリーとして整備し解放できないものだろうか?有効的に活用して頂きたい。そして屋上は目下の目玉であり立入自由は有り難いが手摺などの安全点検整備や清掃も必要だろう。また、ロープウエー職員さんの言葉遣い一つが、下関の印象を左右することも、地元のものとして心配している。
チューリップ園は『イラン・イラク戦争時にテヘランに取り残された日本人215人を救出したイスタンブール市出身のオルハン・スヨルジュ元トルコ航空機長を顕彰するための記念園』であり、ロシアのイスラエル侵攻が早く終結することを祈念するばかりである。
写真は、桜満開時の火の山オルファン・スヨルジュ記念園
エヒメアヤメとミツガシワ
サクラの花が咲くころになると、今年も無事に咲くだろうかと思い出す花がある。
その一つは、エヒメアヤメである。
かれこれ40年ばかり前、防府市の知人が「ちょうどいい時に来た!今が見ごろだから」と、国の天然記念物で西の浦地区が自生南限地といわれるエヒメアヤメに仕事が終わってから案内された。すでに夕方だったが、柵の外側から背丈が10㎝ほどの小さな可憐な花が数か所あった印象が今でも微かに記憶にある。
そのとき、この地の方々が永く保護されていたが3年位前に盗掘があって金網が巡らされたと聞いた。その後、自動車のマツダ工場進出があるというので、行政も地区の人々と共に、特にエヒメアヤメに関しての周辺環境保護に力がそそがれたと聞いている。
エヒメアヤメは、アヤメ科の多年生草本で中国、朝鮮半島、日本でも寒い地方に多く北方系の植物で、氷河期に日本列島が大陸と陸続きであったことを証明するともいわれ、愛媛県に自生しているのを発見して牧野富太郎博士が命名したと言われている。
根茎はやや扁平でやせ型、葉は線形で薄く葉の長さ10~15㎝、陽春を開花期として数㎝の高さの花軸に薄い紫色を咲かせる。
「たれゆえそう」とも言われるそうだが、最近では、その南限地はえびの高原霧島盆地が追加指定され、佐賀県川久保ではエヒメアヤメ祭もあると聞く。
我が下関市小串地区4か所に、エヒメアヤメの自生地として昭和5年(1930)に国の指定を受けていた。ところが、の場所は戦後の混乱期に管理が行き届かずその一部が絶滅して、平成3年(1991)にあらたに追加指定された嶽地区(面積748.8㎡)が最後の一か所として大切に保護されている。
近くの下関市立小串小学校の校章は、エヒメアヤメがデザインされたもので、学校だよりは「えひめあやめ」という名称。その通信を見ると、この地区の専門家の方とともに現地の花を観察し、受粉や種子を採集して栽培などを学習活動の中に取り入れているようである。
地方紙で、こうした活動をあまり見ることも無いが、時たま防府の観察会などの記事が出ると、それぞれの地域の方々が地道な活動が続けられているんだなぁと安堵している。
もう一つの花はミツガシワである。三槲とも三柏とも書き、別名水半夏(ミズハンゲ)とも言い、これも氷河期の遺存植物と言われ北半球の主に寒冷地に分布し自生分布の南限は北九州地域といわれている。
湿地や浅い水中に生え、地下茎は7~10㎜の円形で太く、横に伸ばして拡がる。葉は複葉で3小葉からなり、4~5月に花茎(20~40㎝)を延ばし、5裂して内面に白毛を密生した直径1~2㎝の白い花を下から上に向かって咲き総状に多数つける。この慎ましく誇らかに咲いて行く様子から花言葉は「私は表現する」となっている。
幕末期に、長府藩主が急きょ居城を築いた下関市勝山地区に、現在は勝山御殿として整備保存された本丸跡などがあるが、その奥まった湿地帯にミツガシワが群生している。
ここも、山口県には数か所しか残っていない貴重で絶滅が危惧されている(山口県では絶滅危惧IA類に指定)場所とされ、以前は盗掘などもあったことから金網の柵が施されていて、地区の「勝山三山を守る会」の方々がその管理もされている。
ところが、このミツガシワは下関の吉田地区東行庵の東行池で絶滅どころか異常な増殖があって、初夏の風物として楽しめる場所になっているのも頼もしい。
写真は、エヒメアヤメ(小串・左)とミツガシワ(勝山・中)と同(東行池・右)
王江小学校の閉校
下関市街地の中心部、入江町の高台に以前は銀色屋根のプラネタリュームのあった鉄筋コンクリート造りの王江小学校が見える。
この王江小学校は、明治5年(1872)8月に文部省より学制頒布があって旧市域でもその後の3年間に小学校2 2校が相次いで設立されたとき、明治7年(1874)8月14日に岬之町の民家を借りて児童数36人で開校し、その後も民家などを増やして対応、明治16年に王子(司)山校舎(現在の細江公民館のある付近)に新築移転したが、入江町や細江町の町造りがあって現在地に落ち着いたのは、明治35年(1902)9月23日であり、児童数は543人となっていた。ちなみに、この年6月1日には、明治22年(1889)4月1日に赤間関市として発足した市の名称が「下関市」に、またその前年に開業した「馬関駅」も「下関駅」と改称されている。
(大正5年=1916)「貧困家庭の少女が、王江尋常小学校に入学し2年生の1学期まで、それも病弱でわずかな日数しか出席していないが、学籍簿は平均して「乙」中でも算術と国語は「甲」と評価」などと古川薫著『花も嵐も』(文芸春秋・2000・小説)に、下関出身の女優・田中絹代の幼い日の状況が描かれている。
前置きが長くなってしまったが、この王江小学校と名池小学校が3月末で閉校し学校統合して、新学期からは小中一貫校となり、名陵学園の小学校となる。王江小は開校から148年、在籍者17,443人。児童数は昭和34年(1959)の1603人をピークに減少しはじめ現在は80人となっている。
2月27日には、両校で閉校記念式典があり、王江小学校では同校の卒業生が「学び舎に誰もいなくなる前に懐かしい思い出を」と校内外の見学会が企画された。
私は卒業生でもないが、昭和13年(1938)建築の県内初の鉄筋コンクリート3階建ての校舎に興味があって、この見学会に参加させて頂いた。
午後1時から4時半まで訪れた人は約250名だったとか、15人位集まったところでOBの案内で約1時間校舎を巡った。
「ぼくたちの頃は此処が講堂だった」「プールが綺麗になっている」「ワシら国民学校の時代じゃけど、周りは火の海、戦災にあわんでよかった!」「階段の手すりで滑っていたら叱られたいや」・・・。アルバムや文集が置かれた場所では、自分の年代もだが兄弟や親たちの写真を見つけたり、それをスマホで写真を撮ったりと懐かしく時間を費やし同窓生と話し合っている人たちがあった。
校内の創立100周年記念碑には「正しく、強く、やさしく」と彫ってある。これは校歌の「1番から3番」にも同じ歌詞があり、この雰囲気を校訓とみて良いだろう。
建築では、扉などは後に変わっているだろうが、玄関入り口のガラス窓、天井の漆喰模様などの意匠、あるいは階段の柱と手摺は見事なものである。3階の窓からは海峡や巌流島なども垣間見えたが、ビルなどが建つ前は関門海峡のパノラマ風景が素晴らしかっただろうと思われた。
3階の図書室に「田中絹代コーナー」を見かけた。色褪せてはいるが田中絹代の数枚の写真や『花も嵐も』の本も2冊あり、古川さんと生徒さんが一緒の写真などもあった。名池小と合併になれば「林芙美子と田中絹代」二人の先賢も知ることになるだろう。
昭和45年(1970)のころ下関市教育委員だった歌人の平沢真里氏の著書『ある日の学校』(赤間関書房・1971)の中に王江小学校を書いた一文がある。大江小学校を卒業した中学校の同級生M君のことで「王江の卒業生は坊ちゃん学校の域から脱しなければならぬ」と書いていて、校内を参観した感想を「上品でありやや貴族趣味的といったら叱られるであろうか」などとも書かれているが、終わりに「冒頭のM君は終戦の年に鹿児島の航空基地で敗戦を知り自決したことを後に知って唖然とした。王江にはそんな勇ましい一先輩がいる。・・自分の信念に憤死した人がいたことを後輩諸君に伝えてみたいと思った」と締めくくっている。
新校舎の階段は、85年間の在籍者にすり減り春の日を照り返していたが、廃校となっていく一校舎、同窓生たちの想い出は、今後、どの様に展開していくのだろうか。
写真は左から運動場から3階建校舎、階段、見学会の情景


