王江小学校の閉校
下関市街地の中心部、入江町の高台に以前は銀色屋根のプラネタリュームのあった鉄筋コンクリート造りの王江小学校が見える。
この王江小学校は、明治5年(1872)8月に文部省より学制頒布があって旧市域でもその後の3年間に小学校2 2校が相次いで設立されたとき、明治7年(1874)8月14日に岬之町の民家を借りて児童数36人で開校し、その後も民家などを増やして対応、明治16年に王子(司)山校舎(現在の細江公民館のある付近)に新築移転したが、入江町や細江町の町造りがあって現在地に落ち着いたのは、明治35年(1902)9月23日であり、児童数は543人となっていた。ちなみに、この年6月1日には、明治22年(1889)4月1日に赤間関市として発足した市の名称が「下関市」に、またその前年に開業した「馬関駅」も「下関駅」と改称されている。
(大正5年=1916)「貧困家庭の少女が、王江尋常小学校に入学し2年生の1学期まで、それも病弱でわずかな日数しか出席していないが、学籍簿は平均して「乙」中でも算術と国語は「甲」と評価」などと古川薫著『花も嵐も』(文芸春秋・2000・小説)に、下関出身の女優・田中絹代の幼い日の状況が描かれている。
前置きが長くなってしまったが、この王江小学校と名池小学校が3月末で閉校し学校統合して、新学期からは小中一貫校となり、名陵学園の小学校となる。王江小は開校から148年、在籍者17,443人。児童数は昭和34年(1959)の1603人をピークに減少しはじめ現在は80人となっている。
2月27日には、両校で閉校記念式典があり、王江小学校では同校の卒業生が「学び舎に誰もいなくなる前に懐かしい思い出を」と校内外の見学会が企画された。
私は卒業生でもないが、昭和13年(1938)建築の県内初の鉄筋コンクリート3階建ての校舎に興味があって、この見学会に参加させて頂いた。
午後1時から4時半まで訪れた人は約250名だったとか、15人位集まったところでOBの案内で約1時間校舎を巡った。
「ぼくたちの頃は此処が講堂だった」「プールが綺麗になっている」「ワシら国民学校の時代じゃけど、周りは火の海、戦災にあわんでよかった!」「階段の手すりで滑っていたら叱られたいや」・・・。アルバムや文集が置かれた場所では、自分の年代もだが兄弟や親たちの写真を見つけたり、それをスマホで写真を撮ったりと懐かしく時間を費やし同窓生と話し合っている人たちがあった。
校内の創立100周年記念碑には「正しく、強く、やさしく」と彫ってある。これは校歌の「1番から3番」にも同じ歌詞があり、この雰囲気を校訓とみて良いだろう。
建築では、扉などは後に変わっているだろうが、玄関入り口のガラス窓、天井の漆喰模様などの意匠、あるいは階段の柱と手摺は見事なものである。3階の窓からは海峡や巌流島なども垣間見えたが、ビルなどが建つ前は関門海峡のパノラマ風景が素晴らしかっただろうと思われた。
3階の図書室に「田中絹代コーナー」を見かけた。色褪せてはいるが田中絹代の数枚の写真や『花も嵐も』の本も2冊あり、古川さんと生徒さんが一緒の写真などもあった。名池小と合併になれば「林芙美子と田中絹代」二人の先賢も知ることになるだろう。
昭和45年(1970)のころ下関市教育委員だった歌人の平沢真里氏の著書『ある日の学校』(赤間関書房・1971)の中に王江小学校を書いた一文がある。大江小学校を卒業した中学校の同級生M君のことで「王江の卒業生は坊ちゃん学校の域から脱しなければならぬ」と書いていて、校内を参観した感想を「上品でありやや貴族趣味的といったら叱られるであろうか」などとも書かれているが、終わりに「冒頭のM君は終戦の年に鹿児島の航空基地で敗戦を知り自決したことを後に知って唖然とした。王江にはそんな勇ましい一先輩がいる。・・自分の信念に憤死した人がいたことを後輩諸君に伝えてみたいと思った」と締めくくっている。
新校舎の階段は、85年間の在籍者にすり減り春の日を照り返していたが、廃校となっていく一校舎、同窓生たちの想い出は、今後、どの様に展開していくのだろうか。
写真は左から運動場から3階建校舎、階段、見学会の情景
