「潮流・下関2021」展を回顧②-2 -綾羅木郷遺跡のこと-
企画展の「綾羅木郷遺跡」関係のメーッセジには、前回の他にも「現在の廃れていく文化財の現実に時代を感じますが、その時代を切りとられたグループSYSの活動に注目しておりました」「文化財は、その時に残すようにしなければ、無くなってからでは手遅れになることを学びました」「昔の写真がいっぱいで、でもドキドキしました」「郷台地の一件も、息をのむような緊張感です」「全く知りませんでした」「あの時、あの時間が蘇りました」「私は20代です。知ることの無かった当時の風景。写真で見ることができて有難う」「かっての綾羅木での闘いの日々のことを語り聞いていたことを思い出しました」「ブルドーザーが入り大変なことがありました、ベトナム戦争・・」「郷台地で起こったことは写真がなければ伝わらなかったと思います」などなど、郷台地の何をどのように感じられたのか、あるいはほかの写真からなのかはともかく、当時のことを思い出され、また若い方々は初めて知ったという感想でした。
私が、これらのメッセージを取り上げたのは、その後の会話の中で、直接に現在の小学校の先生が「郷遺跡であんな事件があったことを、全く知りませんでした」と聞いた時で、一寸愕然とし〝アッ!そうだったんだ″半世紀を経過していることで、あの郷事件伝承に中心となってほしい先生が・・郷事件を知らなかった・・と気が付いたことです。
郷遺跡については、緊急発掘(昭和40年=1965)の当時から、下関市民や高校・大学生たちがボランティアで発掘作業に協力し近所のご婦人たちもそれを支援されていた。それは1969年の春3月8日の蹂躙事件、3月11日の史跡指定まで4年間続いた。
私たちはキャンペーンを繰り返し、様々に展覧会を行い本や雑誌などにも掲載もされたが、結局は「それが何であったのか」ほとんど伝承していない。確かに下関市立考古博物館が郷遺跡に隣接して存在しているが、肝心のことは、なにも教宣にはなっていないと気が付いた。
半世紀前のことだが、大切な郷土の歴史の持つ意味について伝承することの重要さを痛切に感じたのが「海峡・下関2021」展覧会であったような気がする。
ところで、この件に関しては不思議なタイミングで『季刊考古学』(158号・2022.1・㈱雄山閣)が発行された。原稿は市立考古博物館から出稿されたのであろうが「考古学と埋蔵文化財」を特集し、その表紙に綾羅木郷台地の緊急発掘時でブルドーザーに追われる緊迫した写真が使用され、後記には「・・急展開で国指定史跡になり保存された。高度成長期において、遺跡の発掘調査は開発事業の障害でしかなかった。しかし、地道な発掘調査とその成果公開の積み重ねの上に、現在の埋蔵文化財行政があることを我々は忘れてはならない。このことを次世代に継承する意味も込めて本号の表紙を選んだ。(グループSYS撮影・下関市立考古博物館所蔵)」と記載されている。
昭和44年(1967)、55年前の3月8日の夜は、綾羅木郷の遺跡台上を11台のブルドーザーが蹂躙した事件のあった日(土曜日)で、その3日後の3月11日は緊急指定で「史跡・綾羅木郷遺跡」が誕生した日である。
後の、平成23年(2011)3月11日は、東日本大震災が発生し、2万2千人を超す多くの犠牲者を出した忘れられない日となっているが、その日を思い出すたびに、下関人は、もう一つの3月11日に関連する史跡綾羅木郷遺跡のことを思い浮かべ語り合っていただきたいと願っている。
こうした伝承は、考古学関係者だけでなく下関市あるいは市教育委員会のテーマとして、広く語り継がれていくための具体策をたて、取り上げてほしいものだと思う。
写真は「潮流・下関2021」展の郷遺跡展示部分と『季刊・考古学』の表紙
