旅の記念品31 -つわの和紙人形- | Issay's Essay

旅の記念品31 -つわの和紙人形-

678 津和野市街と和紙人形

 昨秋、庭のツワブキの花を見て、ふと小京都とも呼ばれている津和野町ご出身の安野光雅氏が亡くなられたのを偲んだ。その津和野をまたまた思い出したのは、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まったことで、津和野が歴史上に現れる弘安5年(1282)元寇再来に備えて、鎌倉幕府の御家人吉見頼行が能登の国からこの地に下り三本松城(1324完成)を築いたことにある。
 以来吉見氏が14代300年間、そして関ヶ原の戦後、坂崎出羽守の治世16年間、元和3年(1617)には因州鹿野城主亀井政矩が4万3千石で入城、亀井氏は11代で明治4年(1871)の廃藩置県まで、鎌倉時代から約600年にわたる伝統的な城下町だった。
 藩校の充実で西周、森鴎外ら明治文化の先駆者を輩出した町としても有名だが、太鼓谷稲成神社、津和野城址、堀庭園、乙女峠、サギ舞の祇園祭などなど観光地としても人気があり、特産品にアユ、ワサビ、源氏巻や石州和紙などもある。
 津和野の製紙業は、吉見氏の時代には始まり坂崎氏の入城においてもコウゾ栽培を勧めて製紙業発展の基礎を築き、亀井氏は紙専売制度を敷き藩の独占企業として租税の大半を紙で代納させ、上納紙は大阪市場で売り捌かれ膨大な収入を得ていた。
 ところが、この上納紙にまつわる庄屋から代官、奉行までの疑獄事件に発展した義民・仁左衛門父子が無実の罪で処刑された哀れな話が後々まで語り継がれ、その後しばしば発生した津和野大火も、城下のものは仁左衛門父子の呪火というほど哀愁をそそっている。
 下関信用金庫と吉南・宇部・津和野の4信用金庫が合併し「西中国信用金庫」としてスタートしたのが平成19年1月、それから間もなく平成21年(2009)5月には創立100周年を迎えるということで、私はその記念誌発行のお手伝いを依頼され、2007年頃から関係市町を廻っていた時、森鴎外旧宅の近くにあったお店でふと目に留まった「紙人形」が、記念誌の一部に津和野の象徴として使用できるかもしれないと購入して帰った。
 高さ74cm、幅25cmで、花をちりばめ飛び交うサギを模様にした振袖をまとい赤い帯を締め、長い髪の毛にリボンをつけ、いかにも津和野盆地で素朴に育った可愛い女の子である。それでいて大きな黒い目が何となく哀れみ深さを思わせる。
 透明なビニールの袋に入れられ、永い間我が家の部屋の片隅に吊るされている。
 結局、記念誌に登場することも無かったが、現在の津和野で和紙が漉かれているか?和紙人形が作られているか?の確認をしてもいないが、結構大きなこのお人形が、時折、美しくも悲しい津和野の歴史を思い起こしてくれるのである。
 写真は津和野市街と和紙人形