Issay's Essay -240ページ目

大田里灯句碑

30大田里灯句碑

 高杉晋作のお墓がある下関市吉田の東行庵に、大田里灯の句碑
「蟻の列 奇兵隊小者 喜作の墓」が建っています。
「喜作」というのは、奇兵隊の馬丁で慶応2年(1866)9月29日、馬関で病死、年は19歳となっています。幕末の小倉戦役のころ市内笹山の勝安寺は野戦病院となっていました。喜作は負傷して、この寺に病没したのでしょう。隊士のお墓が、勝安寺には数基ありましたが、これらのお墓は昭和46年に東行庵清水山に改葬されました。
「尊皇攘夷」を叫び、海峡を通航する船に砲火を浴びせたあげくに、手痛い反撃を受けて惨敗したとき、長州藩主の毛利敬親から下関防御の命を受けた高杉晋作は、下関にやって来て奇兵隊を結成、その後も藩内には諸隊が次々と編成されました。彼らは内訌戦を戦い、外国軍との馬関戦争や幕府相手の四境戦争にも果敢に戦って維新への扉を開いたのです。
 これに加わった兵士の多くは、喜作達のように10代から20代の若者で、妻子縁者もほとんど無く、お墓もいつの間にか無縁仏になり、草葉の陰で侘しく見捨てられていく有様でした。
 東行庵3代目の庵主・谷玉仙尼は、この状況に心を痛めて居られました。そして地元世話人の協力を得て、高杉晋作没後105年祭の昭和46年(1971)の事業として、晋作が眠る清水山に、各地で無縁となった志士たちのお墓を集めた「奇兵隊および諸隊士顕彰墓地」の造成を実現し供養されました。
 110余基の顕彰墓地中央の高台には、台座からの総高が約6メートルもある石造の聖観音菩薩が祀られています。
 大正10年6月生れの大田里灯(文男)さんは、俳句を兼崎地橙孫、土居南国城に師事されています。昭和20年(1945)5月、新婚早々で下関工業学校(現・下関工業高校)の社会科教師として赴任され、学徒動員引率からの教職の出発でした。
 戦後間もなく「工業学校だからこそ文芸が必要、それは創造者のためだ」と、関工に文芸部を創設され、社会科の中では「俳句」を生かされながら「観察力と創造力」を説かれていました。
 卒業して約30年、昭和55年(1980)の暮れ、私は大田先生に「蟻の列・・・」の俳句があることを知り、同級生の友人に「まだ現役の大田先生だが句碑を建てたい」と打ち明けました。以後、東行庵の庵主さんほかの方々に相談を持ちかけ、関工同窓生のほか多くの方々の浄財を得て、翌・昭和56年(1981)7月26日の建立除幕にこぎつけたのです。
 句碑は、史跡・高杉晋作のお墓から進んで、奇兵隊士顕彰墓地の入り口にあり、喜作の墓は句碑の5基向うにあります。
 大田先生が、この俳句を創られた時には「松の根っこを過ぎた蟻の列は、黒々と喜作の墓の方に黙々と這い続け、松籟が時おり音をたてていました。やがて、しきりに鳴いていたホトトギスは、鳴くのをやめ、ホタルの点滅を見ると奇兵隊士の霊ではなかろうかと思った。そのとき『一将功成り、万骨枯れる』であってはならないと感じたよ」と句の想い出を話されました。
 大田先生には、この草莽堀起に心を寄せた「蟻の列・・・」のほかにも、私の好きな多くの俳句があります。そして、この句碑を快く建立させて頂いた谷玉仙庵主さんが遷化されて、この10月には20周年になります。

会津白虎隊自刃まで(2)

29会津若松市白虎隊士墓

 会津藩内では、慶応4年(1868)8月22日の早朝、遂に、藩士の子弟の内、16~17歳の少年たちにより組織されていた「白虎隊」に、登城が命じられて即日、雨の中の出陣となりました。
「殿をお守りするのだ」と、欣喜雀躍で日向内記隊長に率いられて出立した少年たちは、本陣から10キロほど、ずぶ濡れになっての行進で、産土山に着いたときは、はやくも疲労困憊でした。突然の出陣で食料の準備も十分ではなく疲労と飢えを見かねた日向内記が、食糧調達に引き返したまま明け方になっても戻ってこないので、隊員の篠田儀三郎が「自分が指揮を取る」と、戸の口原に隊員を向かわせました。
 官軍の参謀・伊地知は、早くも戸の口十六橋に進軍させ、猪苗代城の敗戦兵が橋を落としきる前に、ここを通過し22日の内に、橋を渡りきっていたのです。
 翌23日、朝霧をついて官軍は戸の口原を目指して砲撃を仕掛け、それは「修羅の巷」と表現される凄まじさで、会津藩は総勢500人、官軍は新兵器を持った2500人。(この時点ではたよりにする同盟軍は解散状態となっていました)兵力も武器も大差です。会津藩は必死の防戦ながら官軍の攻勢に隊は乱れて敗散の状態です。37名いた白虎隊も、打ち破れて僅かの半数20名となって、白糸神社脇まで落ち延びました。そこには、猪苗代湖から会津盆地に疎水を引き込む洞門があることを、少年たちは知っていました。
 疲れ果て、負傷したものを庇い合いながらこの洞門を抜け飯盛山の中腹、弁天祠の前に忍び出て、仁王門南の山頂の土手にたどり着いたとき、白虎隊士たちの目に映ったのは「若松城下の黒煙」でした。 
 激しい市街戦の音が聞こえ、城下は一面の火の海で、炎の彼方に鶴ヶ城天主が見え隠れしているのです。
「城下は火の海、城も落ちたに違いない」それまで張り詰めていた、少年たちの気力は遂に途切れました。
「殿は城とともに命を絶たれたのであろう、我々も潔く、ここで君国に殉じよう」と言い出し、次々に20名が腹を刺しあうもの、切腹するもの、咽喉を衝く者など思い思いに自刃していきました。
 実はこの時、鶴ヶ城はまだ火の手も上ってはおらず、その後1ヵ月の籠城に絶えたのですが、町の炎をみて動転誤認した少年の悲劇でした。自刃した20名の中に1人だけ虫の息の少年が発見され、その飯沼定吉だけは奇跡的に一命を取りとめました。後日、白虎隊最後の様子が彼の語りから明らかになりました。彼は後に、逓信省に入り昭和6年まで生きて、79歳の天寿を全うしています。
 少年たちの遺骸は、官軍の目をはばかって放置されていましたが、滝沢村の吉田伊惣次が夜毎、村内の妙国寺に運び、7回忌に当たる明治7年に飯盛山に19基が改葬されました。8月23日は白虎隊士の命日に当りますが、飯盛山の広場の墓前には命日に限らず、線香が絶えません。
 ここから自刃の場所に向かう途中に、飯沼定吉の墓がぽつんとあります。

会津白虎隊自刃まで(1)

28.若松城跡

 福島県会津若松市の飯盛山に行くと、白虎隊のお墓には線香が耐えません。8月23日が白虎隊の命日なので、戊辰戦争について少し書いてみましょう。
 江戸無血開城は慶応4年(1868)4月11日でしたが、このとき、会津藩主松平容保は帰国していて東北二十余藩の要となっていました。ここには、江戸城の開城を不満とする旗本や脱走兵も加わって集結し始め、奥羽同盟藩の数は7~8万人と膨れあがり、機会があれば大挙して江戸城に迫ろうとの勢いになっていました。
 一方、官軍の首脳は大村益次郎で、「とにかく会津さえ攻め落とせば、奥羽諸藩はおのずと潰れる」との考えで軍略を立てていました。
 それには、大軍を越後口から攻めさせて防御力をそちらに集中させ、東側の背後にはそっと白河口から会津城の空き巣を狙わせる、他の別働隊はその中間で、秋田、津軽などの勤皇諸藩を助けて「会津を三方から包囲」する作戦を立てていました。
 当時の征討軍の総数は約10万人。越後側攻撃軍の参謀は山縣狂介(有朋)、黒田了介。白河口は伊地知正治、板垣退助ら。別軍の参謀は大山格之助でした。
 征討軍の江戸出発は、4月25日で、越後の長岡まで勢いよく勝ち進み長岡に着たときは、あいにく山縣、黒田が不在でした。中立を唱える長岡藩と慈眼寺の会談に臨んだのは軍監・岩村精一郎で、岩村は「河井継之助らの嘆願」を退けたのです。その結果、山縣らの到着を待たずに開戦となり、朝日山では大変な苦戦になりました。時山直八が戦死し北越小藩の長岡藩に大苦戦を喫したのです。継之助との興亡は、ときに長岡城を奪還されることもあって、奥羽戦争中の大激戦となったのです。しかし、河井は負傷して会津に運ばれる途中42歳で絶命となります。こうして、犠牲を多くともなった北越をようやく7月29日長岡城下を平定占領して、いよいよ越後を超えることになりました。
 一方、白河方面からの官軍は7百人、同盟軍は2千6百人、数の上では圧倒的に優位であったはずの同盟軍は、官軍の新式銃に圧倒されて5月1日に死者3百を出して惨敗します(このときの官軍死者は10名といわれます)。 
 その後、同盟軍は7回にわたって奪回を試みますが失敗し、逆に7月27日には三春城、29日には二本松を落城。ここで官軍は会津へのもっとも厳しい道である石筵口・母成峠の防御が手薄なことを探って、ここを攻め猪苗代湖北側、激流渦を巻くという日橋川に架かる十六橋に迫りました。
 この情報が、会津藩にもたらされると、会津の本城では、思いもよらぬ間道からの征討軍(官軍)の侵攻ということで、城中は大騒ぎとなりました。藩の兵(若者)たちは、中山口、白河口、日光口、越後口の、四境方面に出てしまっているために、本城は老人や少年、婦人が残っている有様で、8月22日、城中から遊軍隊と敢死隊、白虎隊を選んで急いで戸の口に援軍を出しました。(明治元年と改元されたのは9月でした)