会津白虎隊自刃まで(1)
福島県会津若松市の飯盛山に行くと、白虎隊のお墓には線香が耐えません。8月23日が白虎隊の命日なので、戊辰戦争について少し書いてみましょう。
江戸無血開城は慶応4年(1868)4月11日でしたが、このとき、会津藩主松平容保は帰国していて東北二十余藩の要となっていました。ここには、江戸城の開城を不満とする旗本や脱走兵も加わって集結し始め、奥羽同盟藩の数は7~8万人と膨れあがり、機会があれば大挙して江戸城に迫ろうとの勢いになっていました。
一方、官軍の首脳は大村益次郎で、「とにかく会津さえ攻め落とせば、奥羽諸藩はおのずと潰れる」との考えで軍略を立てていました。
それには、大軍を越後口から攻めさせて防御力をそちらに集中させ、東側の背後にはそっと白河口から会津城の空き巣を狙わせる、他の別働隊はその中間で、秋田、津軽などの勤皇諸藩を助けて「会津を三方から包囲」する作戦を立てていました。
当時の征討軍の総数は約10万人。越後側攻撃軍の参謀は山縣狂介(有朋)、黒田了介。白河口は伊地知正治、板垣退助ら。別軍の参謀は大山格之助でした。
征討軍の江戸出発は、4月25日で、越後の長岡まで勢いよく勝ち進み長岡に着たときは、あいにく山縣、黒田が不在でした。中立を唱える長岡藩と慈眼寺の会談に臨んだのは軍監・岩村精一郎で、岩村は「河井継之助らの嘆願」を退けたのです。その結果、山縣らの到着を待たずに開戦となり、朝日山では大変な苦戦になりました。時山直八が戦死し北越小藩の長岡藩に大苦戦を喫したのです。継之助との興亡は、ときに長岡城を奪還されることもあって、奥羽戦争中の大激戦となったのです。しかし、河井は負傷して会津に運ばれる途中42歳で絶命となります。こうして、犠牲を多くともなった北越をようやく7月29日長岡城下を平定占領して、いよいよ越後を超えることになりました。
一方、白河方面からの官軍は7百人、同盟軍は2千6百人、数の上では圧倒的に優位であったはずの同盟軍は、官軍の新式銃に圧倒されて5月1日に死者3百を出して惨敗します(このときの官軍死者は10名といわれます)。
その後、同盟軍は7回にわたって奪回を試みますが失敗し、逆に7月27日には三春城、29日には二本松を落城。ここで官軍は会津へのもっとも厳しい道である石筵口・母成峠の防御が手薄なことを探って、ここを攻め猪苗代湖北側、激流渦を巻くという日橋川に架かる十六橋に迫りました。
この情報が、会津藩にもたらされると、会津の本城では、思いもよらぬ間道からの征討軍(官軍)の侵攻ということで、城中は大騒ぎとなりました。藩の兵(若者)たちは、中山口、白河口、日光口、越後口の、四境方面に出てしまっているために、本城は老人や少年、婦人が残っている有様で、8月22日、城中から遊軍隊と敢死隊、白虎隊を選んで急いで戸の口に援軍を出しました。(明治元年と改元されたのは9月でした)