Issay's Essay -238ページ目

狩野芳崖の生涯

36狩野芳崖の生涯

 ここでは、近代日本画の父といわれ、明治画壇の代表的な画家と呼ばれる画聖・狩野芳崖の生涯について書いておきましょう。
 文政11年(1828)1月13日、長府藩の御用絵師・狩野晴皐(せいこう)の長男(第4子・幸太郎)として、長府印内に生れました。
 藩士の子弟として藩校の敬業館に通う一方、松隣と号して父から画技を学びました。天保13年(1842)15歳、このころ画いた『馬関真景図巻』は、当時の下関の建築や風俗を知るうえでも貴重なものです。この年、元服して延信と改め、弘化3年(1846)19歳のときには、10年の藩費留学で江戸に出ます。
 木挽町・勝川院の画塾は、畳2畳の部屋で稽古が終われば其処に床をとる生活でした。1年遅れて入門した橋本雅邦と「勝川院の双璧」と呼ばれるほどになり、嘉永3年(1850)には弟子頭となりました。これは通常10年のところを4年でその課程を修めたことになります。
 そのころ勝海と名乗っていた芳崖は、勝川院の居心地があまりいいものでもなく「師は絵を知り玉わず」といった事もあるようです。塾の顧問、松代藩の三村清山に知遇を得て、同じ木挽町に砲術指南塾を開いた佐久間象山にも私淑しました。
 安政2年に留学期限が切れて帰郷。翌々年30歳のとき長府藩士・鳥山家のヨシを妻に迎えました。間もなく母ゆうが他界、父とは別に藩の御用絵師を務めながらも、このころから真剣に雪舟の研究をします。芳崖は「狩野の法外に出る」ことも覚悟し、妻ヨシの兄・鳥山重信が漢学者であったことから、彼と相談して「芳崖」と号を改めました。
 郷里にいた万延元年(1860)、前年焼失した江戸城修復のため、師・勝川院雅信の招請で江戸に向かい、狩野友信らと本丸大広間の天井絵を画いたといいます。翌文久元年(1861)には帰国。そのころから長州は維新胎動が激しくなり、芳崖も馬関海峡の測量、戦勝祈願の絵馬作成、時には絵筆を捨てて大砲の鋳造に参加などと多忙を極めます。
 慶応元年(1865)、吉田の倉田家から順太郎を養子に向かえ、慶応3年には父・晴皐が死去。この年10月29日に家督を継ぎます。
 維新後、廃藩置県によって録を失った芳崖は、住居も職も転々としながら、当時の人が好んだ南画風の絵を描き、養蚕で糊口をつなごうとして失敗、まさに苦難の時期を過します。明治10年(1877)旧藩主や藤島恒興らのすすめで上京し、養子(廣崖)は慶応義塾へ行かせましたが、本人と妻の生活は、さらに貧乏のどん底でした。
精工社に勤め、陶器や漆器の下絵を画いている内に、明治12年(1875)橋本雅邦の紹介で公爵島津家に雇われ「犬追物図」を制作。月給20円を供されて幾らか生活が安定し、画業にも専念することとなりました。
 明治15年(1882)、内国絵画共進会に出品した作品は、賞にもれましたが、その後フェノロサが知るところとなり、明治17年のそれには「櫻下勇駒図」が褒賞しました。月給10円で文部省御用掛に準任官となり、同19年1月に図画取調掛(後の東京美術学校)雇として月給15円。2月には小石川植物園に事務所を移しました。明治20年7月10日、苦楽を共にした妻ヨシが他界。その追慕の意味からの発想があったのか「悲母観音図」創作にかかります。明治21年(1888)11月5日「悲母観音図」を絶筆として逝去しました。

参考:『没後百年狩野芳崖展冊子』(下関市立美術館副館長・木本信昭氏論文)及び『幕末の絵師』(桂英澄著・新人物往来社)

「悲母観音図」の里帰り

35「悲母観音図」の里帰り

 現在は2番からしか歌われていないという、高野辰之作詞の豊浦高校校歌、1番は「乃木将軍の生まれしところ、狩野芳崖生まれしところ、剣に筆に偉人をいだす、霊気こもる地これ我が豊浦(学舎)」というものです。
 乃木さんと芳崖は、やはり郷土の誇る偉人で、先日も乃木さんについては古川薫氏の小説『斜陽に立つ』が出版されましたが、狩野芳崖については、今年が生誕180年、没後120年とあって、その生誕の地(下関)と逝去した地(東京)、芳崖にとっては最もゆかりのある場所で、偉業を回顧する展覧会が開催されています。
 それは、『狩野芳崖 悲母観音への軌跡ー東京藝術大学所蔵品を中心にー』と題して、東京は芸術大学美術館で8月26日から9月23日まで、下関では下関市立美術館で10月4日から11月5日までの開催となっています。もちろん重要文化財の「悲母観音」が中心に構成されているものです。
 これまで、山口県立美術館の開館記念特別展として生誕150年に当る昭和54年。また平成元年(1989)には下関市立美術館で前年の没後100年を記念した展覧会が開催されました。県立美術館のときには「悲母観音」が来ていたと記憶しますが、20年前の下関のときは、「悲母観音下図」あるいは「観音下図画稿」などが芸術大学から来ていました。もちろんこれらも重要文化財で感銘深いものでしたが、今回は、正真正銘「悲母観音図」が、生誕地の下関長府に120年ぶりの里帰りとなるのです。
 私は、山口県美での記憶がほとんどありません。下関の場合は「観音下図」とはいえ結構大きかった印象があります。その緻密な線描に感心しましたが、今度はその絹本彩色です。やはり目を見張るものがあると今から期待しています。
 芳崖は、明治15年に生れた初孫(新治)をスケッチしたものが、後に「悲母観音の嬰児」のモデルになったと聞いたことがあります。さらに、岡倉天心やフェノロサとともに同19年(1886)の関西古美術調査旅行は、多くの観音像に接して、精神的にもその創作背景に影響したかと思われます。
 私が「悲母観音図」に惚れ込んでいるのは、図録や全集での印象ですが、観音さまや嬰児の表情はともかく、それらが宙に浮いている神秘的な表現、その下方に見える岩陰にあります。晩年の西洋絵画的な表現による「岩石図」や「懸崖飛沫図」に見られる抽象世界と、東洋的な日本画の世界が調和して、見事な幻想空間をかもし出しているところにあります。
 芳崖は、この「悲母観音図」の制作に没頭しました、そしてこれが絶筆となって明治21年(1888)11月5日、数ぇ61歳で鬼籍の人となりました。
 法名、東光院臥龍芳崖居士。東京谷中の長安寺にお墓があります。
 余談ですが「狩野芳崖」を広辞苑でみますと『日本画家。長門長府の人。木挽町狩野に学び、後フェノロサに知られ、明治期日本画の革新に貢献。作「悲母観音」「不動明王」など。(1828-1888)』とありました。「狩野」は「かのう」の欄にあります。先日、下関市立美術館の井土誠館長がある会合で、皆さんは「かのう」「かの」どちらで呼ばれていますか?と聞かれましたが、そのとき元下関図書館長の清永唯夫さんが「僕は、狩野派の時はカノウで狩野芳崖はカノです」と言っておられました。

熊本城の復元

34熊本城の復元

 本丸御殿が完成し評判がいいという話を聞いて、先日、熊本城を訪ねました。
 最近、各所で文化遺産の復元、修復などがなされ、これが観光的にも利用されていますが、私は、熊本に行く直前に長野県の松本城を見たことも有って、正直なところ熊本城本丸御殿は、失望の度合いが大きいものでした。
 言い換えれば「熊本城復元整備事業」という大義名分を振りかざしての無駄遣いだと思ったのです。本物を見極める施設にしては規模が大きすぎます。偽装、偽造の横行する社会、こんな「まがい物の捏造」は許されるのでしょうか。
 平成14年に訪ねたとき城内全体が遺跡の発掘調査と復元作業があって、まるで工事現場のようでした。そのときは土塀の復元中で、漠然とこれほどの経費を掛ける必要があるのかなあ?と思っていましたが、それから5年、確かに工事現場のイメージは払拭されていました。 
 頬当御門の料金所を入り、かい曲がりの石垣を抜け首掛石のある広場に出ると様子が一変。本丸への鉄筋むき出しのスロープが架かっていました。天守閣と本丸御殿入口への通路です。そこは熊本城ビューポイントの一つでした。
 当時、盛んに発掘調査をされていたあたりで、本丸御殿大広間というのが復元されている場所です。スロープを登らずに右側の石垣の間を進むと、御殿下は闇(くらがり)通路となりここを抜けてから、本丸を正面に見る広場に出る従来の通路です。
 西南戦争で焼失した本丸御殿は、平成15年に復元工事にかかり、平成20年春に完成公開されました。玄関口近くに、先ず大台所「ここは吹き抜け天井となっていて赤松の巨大な梁があります。ここは写真を撮られてもいいですよ」説明担当の女性が各所に居て、エンドレステープのように声をかけていました。 
 (あれほど宣伝用のパンフレットには使用しながら、復元した御殿が部分的にでも撮影禁止とは思いませんでした)次に、大広間の玄関口・鶴の間へ。そこから畳敷きの4つの間を通して、絢爛たる「若松」の間がはるかに見えます。
 (写真)「ご対面はこの距離からです」などともっともらしく説明されていました。一般見学者は、この部屋の左側の回廊を奥に進むようになりますが、「若松」の部屋は、やはり撮影禁止。しかも、天井も床も、じっくり見学することも出来ませんでした。近くに数寄屋造りの茶室がありますが、ここも小さな窓から覗き見る程度。
 杉戸絵の複製を見せている部屋では、品物に触れないように見張っているのでしょう、ガードマンが仁王立ちでの監視です。
 確かに発掘調査と文献からの凄い考証による、復元技術には感嘆させれました。しかし、今さら大名文化をかざしての一見豪華な世界を見せられて、特別な感動が沸かないのは私一人だったでしょうか。
 この本丸一帯の復元工事に54億円。熊本城復元整備の総事業費は89億円と公表されていました。文化庁だけでなく国土交通省からも国家予算が支出されていました。
 熊本城には、西南戦争で焼け残った宇土櫓をはじめ、重要文化財が数多くあるというのに、莫大な経費を使って、ドでかい「まやかし」「レプリカ」の制作は如何なものだろう。「本物ではない」後ろめたさを垣間見たような気がしてなりませんでした。
 発掘調査による成果、遺跡の断片を展示し想像を拡大することこそ重要だと改めて思いました