Issay's Essay -237ページ目

サイ上がり神事

39サイ上がり

 何時ものように漁に出かけた男が「里集落西南の海に光り輝くものがある」と、島の長・河野通次(みちつぐ)に知らせました。保元2年(1157)10月のことです。道次は、その男に早速調べるように命じましたので、男はこわごわと舟を出して、網を打ってこれを引き揚げました。それは、八幡尊像の彫られた鏡で、道次らは「これこそ我が一族の守り本尊」だと、近くの小島に鏡を移して舞い、後に光格殿を建てて祀りました。永暦元年(1160)道次はそこに木造の八幡尊像を奉納し、「サァ揚らせ給う」と大声を上げ、鏡を引き揚げた様子を舞いながら武運と繁栄を祈ってお祭しました。
 その後、正平4年(1349)、道次4代の孫・道久のとき八幡大神のご託宣で、迫(さこ)の地に社殿を設けて遷宮して彦島八幡宮となったと伝えます。島の名は舞子島と呼んでいましたが、戦後、工場内の敷地になり姿を消しました。
 毎年、彦島八幡宮例祭(秋祭り)の10月21日(現在は10月21日に近い日曜日)には、河野氏ほか彦島十二苗祖によって、およそ850年、営々と口碑伝説の「サイ上り神事」(下関市指定文化財)が受け継がれています。
 その日、神社前の大工場(下関三井化学㈱)の門が開け放たれて、御神輿の行列は、海岸まで進み海峡の潮を汲み上げて「潮掻き神事」で清めます。この一行が神社に帰ってから神事となります。
 神社境内の広場に、砂を小さく盛り上げピラミット形にしてサカキを立てます。始めは、裃姿の少年がピョンピョンと跳ねながら盛り砂の周りを3度回ります。これは海の魚がはねる様子を表すものといわれます。その後、道次役の鎧兜をつけた武者姿の男が勢いよく砂を矛で突くように周り、最後に「サァ揚った」と息をはずませて言います。
 ただ、それだけ「鎧をゆする音」を聞くだけの神事ですが、彦島の秋を伝える響きがそこにあるようです。

秋の風物詩「ヒヨドリの渡り」

38秋の風物詩

 下関市彦島の南海岸の山からは、9月下旬からヒヨドリの群れが関門海峡を渡っていくのが観られます。それは10月になるとピークに達します。晴れた日は、何千何万という数のヒヨドリが何処から湧くのかと思うほどの移動です。
 広辞苑によれば、スズメ目ヒヨドリ科の鳥、大きさはツグミくらい。ツグミといってもピント来ませんが、体長は25~30センチ、羽を広げると40センチほどの大きさです。さらに、大部分青灰色で、山地の樹林に繁殖し、秋、群れをなして人里に移る。波状に飛ぶ。鳴声は「ひいよひいよ」とやかましい。日本に広く分布。季語は秋。などとあります。
 ところが、地球温暖化のせいでしょうか渡り鳥も留鳥が増えて、ヒヨドリも例外ではなく、さくらんぼやキンカン、千両の赤い実などとあさり、このシーズンになると野菜までも食い荒らし、移動のエネルギーを蓄えるのでしょう。
 本州最西端の森に集結したヒヨドリは、1000~2000羽の群れを成して一斉に海峡の空に飛び立ちます。ところが、これを待ち受けるように何処からともなくハヤブサが出現するのです。
 群れ鳥の、指揮官は誰なのか、その気配を察すると一斉に元の森に逃げ帰るのです。生死を賭けたその慌てふためく様子は、秋の風物詩として観ている私どもにとっては、けな気でもあり滑稽でもあります。
こうして飛翔を繰り返したヒヨドリの群は、あたかも“龍の蠢(うごめ)き”にも似た黒いうねりになって、急に海面すれすれまで急降下して、もはや外敵の攻撃を許しません。海峡を渡り終えて北九州にたどり着き、さらに南下を続けるのでしょう。観ている者は、庭や菜園を食い尽くす、あの“憎っくき鳥”のことも忘れて、渡り鳥たちの無事と平穏を祈るのです。
 やがて春になると、門司の部埼灯台辺りから北上するヒヨドリの群れを観ることも出来ますが、5月中旬に青森県龍飛岬に行ったとき、「北海道に渡るヒヨドリを観察しています」と、断崖の上で野鳥観察員が言われたとき、あらためてヒヨドリの移動距離の凄さに感心しました。
寿永3年(1184)、源義経が一の谷の平家軍を襲撃したのは、神戸の山手にある鵯越(ひよどりごえ)の逆落としでした。源平最後の合戦に平家が布陣した彦島で、秋の風物詩「ヒヨドリの渡り」を観るのも何かの因縁でしょうか。

下関にゆかりの芳崖作品

37下関にゆかりの芳崖作品

 いよいよ下関市立美術館で「狩野芳崖展 悲母観音への軌跡―東京藝術大学所蔵品を中心に―」が始ります。会期は10月4日から11月5日までとなっています。今回は何といっても、芳崖の代表作品である重要文化財の「悲母観音図」が下関でお目見えということが大きな魅力ですが、あらためて下関にゆかりのある狩野芳崖に関りのある場所と作品について紹介しましょう。
 先ず、芳崖の旧宅のあった場所ですが、長府印内に小さな「旧宅跡」の標柱と説明板が建っています。狩野家の墓所がある覚苑寺は、長府安養寺にあり境内入り口の「長門鋳銭所跡」の碑に近く「芳崖の銅像」(中村辰治作)があります。墓所は本堂の裏手、この寺院の霖龍如澤和尚は芳崖の精神形成に大きな影響を与えたといわれ、芳崖の描いた肖像画が残っています。
 少年時代に通った敬業館は、侍町にこれも石碑だけありますが、長府宮の内の忌宮神社宝物館は見過ごせません。また長府博物館、市立美術館に作品や遺品そして美術館屋外に芳崖の胸像(藤田文蔵作)があります。
 さて、芳崖作品の奉納絵馬3面が忌宮神社宝物館にありますが、今回その内1面の「繋馬図」は、美術館の芳崖展に出品されます。
 これは、安政3年に奉献されました。乱れた木目の現れた板に、繋ぎ止められたもどかしさから逃れようと苛立つ奔馬を描いたもので、生命感に溢れる姿は、当時狩野派の抑圧から脱しようとした芳崖の心境、気負いを感じることが出来るといえます。
 他の2面は、「武内宿禰投珠之図」と「韓信股潜之図」であり、宝物館に収まっていますが、時勢を反映した芳崖の心情を見事に表現したものといわれていますので、是非、足を運ばれることをお勧めします。
 前者は元治元年、藩主・元周の奥方が時局打開の祈りを込めて奉納した絵馬といわれ、神功皇后伝説に基づく華やかなものです。干珠・満珠を持って賊を撃退しようとする武内宿禰の、力感あふれる右手と足の踏ん張りは、まさに内憂外患、一藩の命運を託した切実感があるものといえましょう。
 もう1面は、芳崖自信が慶応3年に奉納したもので、画面中央に足を広げた意地悪そうな2人の男、その股下を屈辱耐え忍んで潜り抜ける韓信の毅然とした表情を描いたもので、雌伏時代の自分あるいはこの時勢の長州人が抱く切実な状況を表していると、いわれています。
 市内には住吉神社他に、芳崖ゆかりの地や作品が散見しています。