正円寺のイチョウ
このところ長府城下町を散策する観光客は、国宝の仏殿がある功山寺から忌宮神社辺りのコースが主のようですが、増えていると聞きます。出来るなら、長門鋳銭所跡のある覚苑寺や長府商店街まで、範囲が広がってほしいものです。
忌宮神社のそばを北上する商店街筋は。かって山陽道として重要な役割を果たしていた旧街道筋で、その東側には中世以降、鋳物師達が住んでいました。今も「金屋」の町名が残っています。また、西側は本覚寺、浄土寺、正円寺、法華寺、大乗寺などと寺院が続いているのです。
山口銀行長府支店前からの商店街の辺りは、昭和22年の長府大火があったところですが、本覚寺の龍や正円寺のイチョウが延焼を防いだとの伝聞もあります。最近、歴史的地区環境整備事業として景観を意識した街路づくりがなされ、居住者の協力で呉服屋さんも薬局も、お医者さんも、寿司屋さんもと、家屋は歴史的な和風イメージに統一されて建て変わり、それでいて味のあるハイカラな、随分と美しい町並みが誕生しました。
秋になると、私はふとこの町筋にある正円寺のイチョウを思い浮かべます。山口県の天然記念物(天然記念物)に指定(昭和44年)されていることもありますが、ずいぶん前に住職は「落ち葉が近所迷惑でねえ・・こればかりは、どうしょうもないんですよ」と、話されたのが脳裏を離れないのです。本堂前の大イチョウは、住職のそんな悩みには関りなく、毎年、多くの「葉ッパ」を輝かせては散らしているのです。
幹は、地上約2.6メートルのところから5枝に分れ、高さは約13メートルといわれます。目通りが約8メートル。このイチョウは雌樹で、幹から「乳下垂」と呼ばれる気根が幾つも垂れ下がっているのでも有名です。
気根というのは、地上の幹や茎から出て空気中に露出した根のことで、イチョウの場合は空気中の水分を吸収して伸張するといいます。
樹齢約850年、県内でも名木といわれるイチョウの樹が、その商店街、旧山陽道筋の一隅にあるのです。真黄色の葉陰に、見事な「乳の下垂」を見上げて悠久の時、城下町の秋を感じたいものです。
石柱溪の観音様
下関市の北部に当る華山、狗留孫山は古くから霊山として崇拝されていますが、木屋川を堰き止めてできた豊田湖一帯を含めた景観地は、豊田県立自然公園に指定されています。
その中でも特に木屋川の支流・白根川の上流、延長約二キロは、大小数十の飛瀑があってドウドウ川と呼ばれていた渓谷、石柱溪があります。岩石は三塁紀の石英斑岩で、径20センチ位の4~6角の断面をもつ直立した柱状節理でなっています。
嘉永3年(1850)萩に生れた日本画家の高島北海は、フランス留学中にエミール・ガレらとの交流がありアールヌーヴォー運動にも影響したといわれますが、長門峡、石柱溪の名付け親でもあり、その渓谷美を世に広めました。
大正時代末期、地元の山崎医師の案内でここを訪ねた北海は、その探勝道の開発にも一役買ったといわれていますが、横山健堂は「高島北海翁の命名は頗る佳い、一言にしてこの渓谷美の本領を尽くしていて、小規模ながらまさに天下無二」と絶賛しています。
北海が公表した翌年の大正15年に、名勝並びに天然記念物の指定を受けました。
渓谷には「相思の滝」「薬研の滝」などと名付けた多くの滝がありますが、奥のほうにある「北海の滝」「閑山の滝」などは高さが5メートル位でもっとも景勝の滝です。近くに悲恋物語の伝わる、お通淵、万作淵があります。
それは『田草を取っていた土地の娘・お通が、旅を急いでいた毛利家臣の若侍・衣笠万作衛門の袴の裾を泥で汚したのが縁で、深い仲となってしまいました。ところが、身分の違い過ぎる叶わぬ恋だと思ったお通は、泣き通したあげくに、石柱溪の連理の滝に身を投じました。これを知った万作衛門も腹横一文字に掻き切って、閑山の滝にお通の後を追った』というもので、後に2人の霊を慰めるため「相思の滝」近くに観音様を祀ったといいます。
長州征伐令と高杉晋作の亡命
元治元年(1864)8月14日、四国連合艦隊との講和がなって此方の紛争は一応決着したものの、8月3日に幕府から出ていた長州藩討伐の進発令を受けて、長州藩内では、幕府に対しての対処が二分していました。
敗戦続きで分の悪い急進派は後退し、藩の実権は椋梨藤太らを中心にした俗論党に傾きかけ、これまでの方針を変え幕府に謝罪しようという「謝罪恭順」と、一応幕府に従うふりをして武力を蓄えようという「武備恭順」という二つの意見に分かれていました。
9月25日の藩主親子を前にした会議で、井上聞多(後の馨)の強硬な意見がとおり、藩主は「武備恭順」の結論を出したのです。ところが、その翌日の夜、井上聞多は、山口の町外れ「袖解橋」で待ち伏せていた俗論党の刺客に襲われ瀕死の重傷を負いました。
これを契機に俗論党が実権を握り、公儀にたてつく者は獄に入れて切腹・斬首、急進派に対しての「血の粛清」、が始ったのです。急進派の指導・応援をしていた周布政之助も「藩に危機をもたらした」と捕らわれる前に自殺しました。
講和を果たした晋作は、萩の自宅に閉居を命じられていて、そこで井上の遭難や周布の悲報を知ったのです。10月5日、長男・梅之進(東一)が生れます。
10月21日、諸隊の解散令が出ました。そのとき晋作は「捕らえられれば殺される」と予感します、24日夜半に亡命を決め、谷梅之助と名前を変え変装して脱獄しました。道中、井上を見舞い、防府から下関へ、そして行く先は福岡の平尾山荘(写真)でした。そこには野村望東尼が住んでいます。幼少のころから読書に親しみ24歳の時、福岡藩士の野村新三郎の後妻になりますが、夫の死後剃髪して尼となりますが優れた歌人でした。また、夫の影響も有って早くから勤皇思想に目覚めていましたから、追われる多くの志士たちをかくまっています。
晋作は、約20日間ここに潜伏して、長州の状況をみていますが、11月中旬になって、長州藩の、血の犠牲は益田右衛門・国司信濃・福原越後の三家老切腹、宍戸ら四参謀の斬罪、さらに重要人物七人の首が撥ねられた事を知ります。まさに安政の大獄「長州版」で幕府の長州征伐を逃れんとした残酷な処置でした。「もはや逃げ回っている時ではない」と決意を決めた晋作は、11月21日「ご恩は一生忘れません」と望東尼に分かれつげて、11月25日には下関に帰ってきました。