Issay's Essay -234ページ目

作曲家・坊田かずま

作曲家
 

 全国の「筆」の8割を生産し「筆の里」と呼ばれている、山に囲まれた小さな盆地、広島県熊野町の郷土館(写真)に行きました。
 パンフレットには「郷土館に筆問屋の店先を再現している」とあったので寄ったのですが、案内をされた館の方は、「2階に、熊野町出身の童謡作曲家・坊田かずまの資料が展示してある」と進められて、そこを見ましたが特別に知っている童謡も無く、通りいっぺんに見過すところでしたが、同行した友人が、年譜を見ながら「下関菁莪(せいが)小学校の校歌を作曲されています。菁莪小学校って何処にあったんですか?」と質問してきました。「田中町にあったけど戦災で無くなちゃった。松本清張も通っていた学校だよ」と答えながら、年表を見ると確かに昭和14年の欄に菁莪小学校の記述がありました。
 案内をされていた、町の方が「学校があれば曲が残っているんでしょうがねぇ」と、いかにも残念そうでした。
 坊田かずま(寿真)は、明治35年(1902)熊野町に生まれ、昭和17年(1942)、39歳の若さで没くなっています。
 大正9年に広島師範学校を修了し、地元の小学校の先生になります。翌大正10年、雑誌『赤い鳥』に掲載されていた北原白秋の詩に曲をつけて応募したところ推奨曲譜として入選、教職と音楽の道を歩みことになりました。
 昭和4年には東京麻布台の小学校に転任し、音楽の教員をしながらも日本の「わらべ歌を残したい」と日本各地で採譜を行って『日本郷土童謡名曲集』を出版されています。自分自身も『ゲンゲの畑』『水がめ』『子馬と子供』『通せんぼ』などの作曲をしています。
 私達が下関に帰った後に、現地にある「坊田かずまの会」(会長・竹森鉄舟)から『昭和14年から16年にかけて、数校の校歌作曲をしていますが、菁莪小学校の資料については楽譜と詩が残っているだけで、資料が全くありません。どんなご縁で作曲に携ったのか、作詞の松永勇吉先生のことなどが分ればと思いますが』などと書かれた手紙を頂きました。
 ちなみに、校歌は勇ましく、次のようなものです。
 1. 刈菰の刈菰の 維新の風雲叱咤して 大義徇へし高杉の
   雄雄しき意気を鏡とし 日本魂磨きなん (2番以降-略-) 
 私たちも知人を頼りながら、菁莪小学校を卒業された方々から少しばかりの情報を集めてみましたが、何しろ戦時中のことで確たる資料が見当たりません。
 何かの手がかりがあればと、こんなエッセーを書きました。

「お忌祭」

お忌祭
 

 長門国の一の宮と呼ばれている住吉神社は、新羅から凱旋した神功皇后が住吉大神の荒魂をお祀りされたことに始まるといわれています。
 朱塗りの太鼓橋を過ぎて石段を登ると、楼門、拝殿、本殿、それを取巻く社叢が、じつに荘厳で神秘的な空間にいざなってくれます。
 それらは全てが国宝や重要文化財などの文化財に指定されています。
 しかし、その空間を取巻く周辺の環境は、国道2号線、中国自動車縦貫道、JR山陽本線、山陽新幹線など交通網とともに、住宅化が進むにつれ学校やマンションなどが次々に出来て、お社はまさに喧騒のド真ん中の感じになりました。
 仲哀天皇が香椎で崩御されたとき、妃の神功皇后が斎宮にワカメを供えて籠もった由来で、皇后にゆかりのある神社(下関では、住吉、忌宮、龍王、若宮、杜屋、吉永八幡)では、千数百年來受け継がれている祭事が行われます。
 巷が忘年会などで賑わう年の瀬、師走12月7日の夜から15日の朝まで(上記の若宮以下は1月)、神社神域は注連縄をめぐらして外界からの交流を断ち、全神職は、社殿の中に籠もって秘祭を行うといいます。この間、町中にいる氏子は一切外出をひかえ、歌舞音曲はもとより、大声を出して談笑したり、大きな音を立てることさえも禁物。さらに、刃物、針仕事、野良仕事さえもしてはいけないとの禁忌を伴う掟のある「お忌祭」(おいみさい)が行われます。
 この禁忌にふれると、目がつぶれ、石になるとのいい伝えがあります。
 住吉神社から1キロばかり離れた勝谷の畑の中に「お斎石(おいみいし)」というのがありますが、この石について近くで畑仕事をしていたご婦人に聞くと「あの石は、向うにあったが鉄道が出来るときここに移したそうナ、お祭り(お忌祭)のとき、子どもを背負って洗濯をしていた婆さんが、巡見の神様に見つかって、馬の上から鞭で打たれたら石になってしもうた!可哀そうにナァ。私らも姑から“祭りのときゃァ洗濯は裏の方で分らんごとしいゃ”と言われたもんですィ・・」と話してくれました。
 神社の近くには、「双水井」「にごり池」「和布刈の禁忌」などと、荒魂の尊厳を伝えるところが、まだまだ息づいています。

新寺田屋事件

新寺田屋

 NHK大河ドラマ『篤姫』(08.10.5)を見ていると、お竜さんが危急を告げた寺田屋の2階で、坂本龍馬がピストルで身構え、そばで槍を手にした三吉慎蔵がテロップ入りで映し出されました。その間数秒。この三吉慎蔵が長府藩出身(以前この欄で取上げた三吉米熊の父親)なのです。
 慎蔵は、天保2年(1831)10月11日、長府藩士・小坂土佐九郎(今枝流剣術師範)の2男として生まれました。幼名・友三郎。6歳のころから、父の門下に加わり剣術の稽古に励み、後に萩の明倫館で儒学と法蔵院流槍術を修めました。安政4年(1857)に、長府藩家臣の三吉十蔵の名籍を継ぐことになりました。翌年、藩主に随行して江戸に向かい、かたわら西洋砲術を習得、文久3年には馬廻役、永代馬廻役と出世しています。
 慶応2年(1866)正月元旦、時世探索のため上京の藩命を受けた慎蔵は、印藤聿(後の豊永長吉)の紹介により、下関に来ていた坂本龍馬と初めて面会し、その夜は「慎蔵と龍馬は」そのまま同宿。1月10日の便船を得て18日に大阪に着きました。その日のうちに龍馬らは旧知の大久保を訪ねましたが「幕吏の探索が厳しく早々にこの場を立ち退くよう」に勧められたのです。慎蔵は藩命を受けての上京です、そのまま龍馬と入京を決め翌19日に伏見の寺田屋に旅装を解きました。翌20日、龍馬は慎蔵を残して薩摩邸に入り、薩長双方の説得をすすめ倒幕の決定打となる同盟を設立させました。
 そして23日、寺田屋事件が起こりました。2人はピストルと短槍で防戦しながら辛くも脱出。しかし龍馬の傷がふかく慎蔵はこの危急を伏見の薩摩藩邸に知らせ、すぐさま藩邸からの救援隊出動で、龍馬は救出されました。
 この寺田屋は、現在も当時の船宿そのままに旅籠風の風情を残し、龍馬愛用の部屋や刀傷のある柱、お龍さんの入っていた浴場も現存して、観光客必見の名所になっています。
 ところが10月の下旬、京都市は「寺田屋は旧幕府軍と新政府軍の戦火で失われている」と調査結果を発表しました。これに対して、寺田屋の現在の管理者は「一部は被災したが、全焼したわけではない」と主張しているそうです。
 私たちにとっては「140年を経て、何ともロマンをぶち壊してくれた」降って沸いたような研究発表でとまどいました。歴史の真実と事実どうとらえていいのか、迷ってしまいます。現地では新寺田屋事件が巻き起こるのかも知れません。