作曲家・坊田かずま
全国の「筆」の8割を生産し「筆の里」と呼ばれている、山に囲まれた小さな盆地、広島県熊野町の郷土館(写真)に行きました。
パンフレットには「郷土館に筆問屋の店先を再現している」とあったので寄ったのですが、案内をされた館の方は、「2階に、熊野町出身の童謡作曲家・坊田かずまの資料が展示してある」と進められて、そこを見ましたが特別に知っている童謡も無く、通りいっぺんに見過すところでしたが、同行した友人が、年譜を見ながら「下関菁莪(せいが)小学校の校歌を作曲されています。菁莪小学校って何処にあったんですか?」と質問してきました。「田中町にあったけど戦災で無くなちゃった。松本清張も通っていた学校だよ」と答えながら、年表を見ると確かに昭和14年の欄に菁莪小学校の記述がありました。
案内をされていた、町の方が「学校があれば曲が残っているんでしょうがねぇ」と、いかにも残念そうでした。
坊田かずま(寿真)は、明治35年(1902)熊野町に生まれ、昭和17年(1942)、39歳の若さで没くなっています。
大正9年に広島師範学校を修了し、地元の小学校の先生になります。翌大正10年、雑誌『赤い鳥』に掲載されていた北原白秋の詩に曲をつけて応募したところ推奨曲譜として入選、教職と音楽の道を歩みことになりました。
昭和4年には東京麻布台の小学校に転任し、音楽の教員をしながらも日本の「わらべ歌を残したい」と日本各地で採譜を行って『日本郷土童謡名曲集』を出版されています。自分自身も『ゲンゲの畑』『水がめ』『子馬と子供』『通せんぼ』などの作曲をしています。
私達が下関に帰った後に、現地にある「坊田かずまの会」(会長・竹森鉄舟)から『昭和14年から16年にかけて、数校の校歌作曲をしていますが、菁莪小学校の資料については楽譜と詩が残っているだけで、資料が全くありません。どんなご縁で作曲に携ったのか、作詞の松永勇吉先生のことなどが分ればと思いますが』などと書かれた手紙を頂きました。
ちなみに、校歌は勇ましく、次のようなものです。
1. 刈菰の刈菰の 維新の風雲叱咤して 大義徇へし高杉の
雄雄しき意気を鏡とし 日本魂磨きなん (2番以降-略-)
私たちも知人を頼りながら、菁莪小学校を卒業された方々から少しばかりの情報を集めてみましたが、何しろ戦時中のことで確たる資料が見当たりません。
何かの手がかりがあればと、こんなエッセーを書きました。
