Issay's Essay -233ページ目

「今年の漢字」は

Issay’s Essay-今年の漢字は

 随分前になりますが、「白い恋人」に始った食品問題、「不二家」から「赤福」その後も原料偽装では牛肉ミンチ・コロッケ、地鶏、豚肉、そうめん、産地偽装でシジミ、牛肉、ウナギ、ジュースなど、さらに賞味期限切れの菓子、餅、うどん、などと大きな社会問題となり、昨年は、恒例の京都・清水寺貫主が書かれる漢字は「偽」となりました。
 今年は落ち着くかと思っていた偽装問題、下関では中国産アンコウを下関産だと偽って販売、「アンコウ」が下関ブランドとして認められつつあるときの産地偽装ですから関係者のショックは大きいものでした。また下関のフク連盟にも加入していない業者のトラフグ国産偽装もあり、やり場の無い怒りの声が上がりました。
よくも凝りずにと「船場吉兆」、ウナギの「魚秀」「汚染米、事故米」と、直接「食」の健康被害に関る、ますます巧妙で悪質なものでした。
 冷え切った経済状況で年が開け、原油高騰急落、株価の変動、物価の急騰さらに天変地変、突風・高潮・雪崩・集中豪雨・土砂崩壊それに大地震、教員不正採用、振り込めサギ、相次ぐ通り魔、相撲界と学生の大麻事件、テロ警戒と人種問題の北京オリンピック、首相の交替劇、大手業界生産制御、リストラ実施、派遣社員解雇、地球温暖化対策を模索しながらの年の瀬。「山口さんちのツトム君」の歌を、思い出した。『このごろ何だか変よ・・』。生徒児童の理数科の成績低下が、授業時間増加にふみだした学校現場、今まで円周率が「3」だったとは、これじゃあ学力低下も当たり前ではないですか。 そんなことを思っていたら、日本人4人のノーベル賞受賞の快挙もありました。
 芭蕉俳諧の基本理念に『不易流行』がありますが、はたして今年の漢字は、『変』だと決定されました。

功山寺回天義挙

Issay’s Essay-功山寺回天義挙

 12月15日夜になって雲は切れ満月は、積雪の功山寺境内を白銀に照らし出していました。
 高杉晋作らが、まさに進発しようとしたとき、晋作の馬前に奇兵隊軍監・福田侠平が座り込み、『君は、獄中の苦を忘れたのか』と絶叫。晋作の無謀の挙を諌め、どうか暫く待ってはと言う友情の声でした。
 晋作は〈今さらどうなるものでもない〉と思いましたが、そのとき隊の後から「進めるがよろしかろう」と声がかかりました。「今となっては止むをえん、とめるな」と福田に伝え功山寺山門を出発。
 しばらく進んで、今度は長府公の要人が現れて〈宗家に申し訳ないから暴発の中止を〉と嘆願です。晋作は「藩侯のお立場は充分に了解しているが、この期に及んで中止は出来ぬ、悪しからずご報告下され」と、80余人の一隊は進発しました。回天義挙、功山寺挙兵などと呼んでいます。
 決起した一行が先ずめざしたのは、下関新地にある本藩の会所。そこまでの道のりは、長府港から船だったとか、陸路で向かったという諸説がありますが、史実がどうなのか私には分かりません。ともあれ翌日未明には新地会所を襲撃して、命乞いをする奉行を萩に帰し、武器、弾薬、食糧、軍資金などを手に入れました。
 一行は、まず屯所を大坪の了円寺とし、晋作は直ちに20名ほどの志願者を連れて三田尻(防府)に向かい、そこの港にいた藩の軍艦を奪い意気揚々と下関に帰ってきて、割拠の体制を整えました。
 晋作が旗揚げをした2日目の12月17日には、山縣狂介も髪を切り長府を立ちました。
 高杉の暴発が萩に伝わると、俗論党は慌てて前田孫右衛門や松島剛蔵ら獄中に幽閉していた政府員7人を、12月19日に斬罪としました。そのことが、広島の征長総督府に伝わり「長州は恭順した」と思い込んで、総督府は「征長軍解散令」を出しました。
 一方藩内では、その残忍、残酷な俗論派の所業が、正義派を一気に奮起させることになって、防長各地からの諸隊決起を促すことになりました。

晋作の決起

Issay’s Essay-晋作の決起

 血の粛清に続いて、長州には五卿の転座という重大問題も持ち上がっていました。「今をおいて時は無い」福岡に亡命して動きを見ていた高杉晋作は、猛然と立ち上がって下関に戻り、白石邸で先ず情報を集めました。
 奇兵隊を率いていたのは第3代総督の赤根武人で、彼は「幕府軍が迫ってきている時に長州は二分するべきではない」と、俗論派との妥協を画策のため萩に出かけていました。赤根をあまり信用出来ないと思っていた、山縣狂介(後の有朋)は、奇兵隊の軍監であり事実上の隊長でした。
 晋作は、正一郎に「赤間関の鬼となり討死の覚悟で事に当ります」と告げ、大庭伝七(正一郎の弟)に、墓碑銘や覚悟のほどを書いた手紙を送りました。
 いよいよ12月13日「武力による俗論派打倒」を引っさげて長府に登場した晋作は、奇兵隊や諸隊などかっての同志に説得を始めました。しかし「いま決起するのは早過ぎませんか、我々もこのまま諸隊が潰されるのを黙視はしないつもりですが、出来るなら血を見ずに・・」と、山縣が意見を言いかけたとき「馬鹿なことをいうな‼血はいやというほど見てるじゃあないか」「俗論党を今、説得中ですよ・・」「赤根ごときに騙されるな‼」ものすごい剣幕でしたが、晋作に同意するものはほとんど無くて、伊藤俊輔の力士隊のみが賛成、のちに石川小五郎の遊撃隊が挙兵に賛成しました。
 晋作は、諸隊幹部が同意しなかったことが余程屈辱だったのか、決起の日、御楯隊の宿舎に行って「真があるなら今月今宵、あけて正月誰も来る」と、謎めいた都々逸を大声で謡い去ったといいます。
 12月15日は朝からの雪。賛成した両隊の中にも脱落者がいて、その夜長府に集結したのは80人ほどでした。
 晋作は、先ず功山寺に潜居して居られる五卿に拝謁を申し出ると、三条実美ほかが揃われた部屋に通されました。その座敷で、一しきりの挨拶のあと「今より、長州男児の胆気をご覧にいれます、国運の挽回必ずや・・」と高らかにいって退いたのです。
『内憂外患我が州に迫る 正に是れ邦家存亡のとき 将に回天回運の策を立てんとす 親を捨て子を捨つるまたなんぞ悲しまん』
 晋作は、その時の心境を現す漢詩を遺しています。(写真は、功山寺・五卿の間と回天義挙之碑)