功山寺回天義挙
12月15日夜になって雲は切れ満月は、積雪の功山寺境内を白銀に照らし出していました。
高杉晋作らが、まさに進発しようとしたとき、晋作の馬前に奇兵隊軍監・福田侠平が座り込み、『君は、獄中の苦を忘れたのか』と絶叫。晋作の無謀の挙を諌め、どうか暫く待ってはと言う友情の声でした。
晋作は〈今さらどうなるものでもない〉と思いましたが、そのとき隊の後から「進めるがよろしかろう」と声がかかりました。「今となっては止むをえん、とめるな」と福田に伝え功山寺山門を出発。
しばらく進んで、今度は長府公の要人が現れて〈宗家に申し訳ないから暴発の中止を〉と嘆願です。晋作は「藩侯のお立場は充分に了解しているが、この期に及んで中止は出来ぬ、悪しからずご報告下され」と、80余人の一隊は進発しました。回天義挙、功山寺挙兵などと呼んでいます。
決起した一行が先ずめざしたのは、下関新地にある本藩の会所。そこまでの道のりは、長府港から船だったとか、陸路で向かったという諸説がありますが、史実がどうなのか私には分かりません。ともあれ翌日未明には新地会所を襲撃して、命乞いをする奉行を萩に帰し、武器、弾薬、食糧、軍資金などを手に入れました。
一行は、まず屯所を大坪の了円寺とし、晋作は直ちに20名ほどの志願者を連れて三田尻(防府)に向かい、そこの港にいた藩の軍艦を奪い意気揚々と下関に帰ってきて、割拠の体制を整えました。
晋作が旗揚げをした2日目の12月17日には、山縣狂介も髪を切り長府を立ちました。
高杉の暴発が萩に伝わると、俗論党は慌てて前田孫右衛門や松島剛蔵ら獄中に幽閉していた政府員7人を、12月19日に斬罪としました。そのことが、広島の征長総督府に伝わり「長州は恭順した」と思い込んで、総督府は「征長軍解散令」を出しました。
一方藩内では、その残忍、残酷な俗論派の所業が、正義派を一気に奮起させることになって、防長各地からの諸隊決起を促すことになりました。