晋作の決起
血の粛清に続いて、長州には五卿の転座という重大問題も持ち上がっていました。「今をおいて時は無い」福岡に亡命して動きを見ていた高杉晋作は、猛然と立ち上がって下関に戻り、白石邸で先ず情報を集めました。
奇兵隊を率いていたのは第3代総督の赤根武人で、彼は「幕府軍が迫ってきている時に長州は二分するべきではない」と、俗論派との妥協を画策のため萩に出かけていました。赤根をあまり信用出来ないと思っていた、山縣狂介(後の有朋)は、奇兵隊の軍監であり事実上の隊長でした。
晋作は、正一郎に「赤間関の鬼となり討死の覚悟で事に当ります」と告げ、大庭伝七(正一郎の弟)に、墓碑銘や覚悟のほどを書いた手紙を送りました。
いよいよ12月13日「武力による俗論派打倒」を引っさげて長府に登場した晋作は、奇兵隊や諸隊などかっての同志に説得を始めました。しかし「いま決起するのは早過ぎませんか、我々もこのまま諸隊が潰されるのを黙視はしないつもりですが、出来るなら血を見ずに・・」と、山縣が意見を言いかけたとき「馬鹿なことをいうな‼血はいやというほど見てるじゃあないか」「俗論党を今、説得中ですよ・・」「赤根ごときに騙されるな‼」ものすごい剣幕でしたが、晋作に同意するものはほとんど無くて、伊藤俊輔の力士隊のみが賛成、のちに石川小五郎の遊撃隊が挙兵に賛成しました。
晋作は、諸隊幹部が同意しなかったことが余程屈辱だったのか、決起の日、御楯隊の宿舎に行って「真があるなら今月今宵、あけて正月誰も来る」と、謎めいた都々逸を大声で謡い去ったといいます。
12月15日は朝からの雪。賛成した両隊の中にも脱落者がいて、その夜長府に集結したのは80人ほどでした。
晋作は、先ず功山寺に潜居して居られる五卿に拝謁を申し出ると、三条実美ほかが揃われた部屋に通されました。その座敷で、一しきりの挨拶のあと「今より、長州男児の胆気をご覧にいれます、国運の挽回必ずや・・」と高らかにいって退いたのです。
『内憂外患我が州に迫る 正に是れ邦家存亡のとき 将に回天回運の策を立てんとす 親を捨て子を捨つるまたなんぞ悲しまん』
晋作は、その時の心境を現す漢詩を遺しています。(写真は、功山寺・五卿の間と回天義挙之碑)