月照と月性
NHK大河ドラマ『篤姫』は、平成20年12月、遂に終わりました。
あの「安政の大獄」放映のころ、追われる身の「月照(ゲッショウ)」が登場しましたが、山口県の者は「ゲッショウ」に戸惑いがあったようです。
ドラマの月照は、文化10年(1813)に大阪の町医者に生まれ、14歳のとき、京都・清水寺成就院に入り住職となりました。尊皇攘夷に傾倒して公家や西郷らと交わり、島津斉彬が亡くなったときに西郷が殉死しようとしたのを諭して止めさせた事もありました。ところが、将軍継嗣問題で井伊大老から危険人物視され、今度は西郷隆盛が月照と一緒に京都を脱出、薩摩に逃れたものの厄介者として藩から保護を拒否され、追放処分の命が西郷に出されました。それは日向国境で月照を切り捨てるのが目的でした。舟に乗って錦江湾を行く船の中で月照は死を覚悟し「大君のためにはなにか惜しからむ薩摩の瀬戸に身は沈むとも」の辞世を残しています。西郷は、2人で脱出決意の入水でしたが月照は死亡、享年46歳でした。西郷は奇跡的に助かりました。
山口県に住むものとしては、幼い時から聞かされた、「ゲッショウ」という響き、僧侶で尊皇攘夷派というのも同じです。その「ゲッショウ」がドラマの中に出たので混乱したのです。
ところで、山口県人としての「ゲッショウ」は、「月性」と書き、吉田松陰との親交もありました。
文化14年(1817)、玖珂郡遠﨑(現・柳井市)の妙円寺に生れ、15歳の時、豊前の恒遠塾で詩文を学び、さらに24歳のとき京阪に出発。このときの志が「男児志を立てて郷関を出ず/学もし成らなくんばまた還らず・・・人間いたるところ青山あり」という有名な漢詩です。
その後、嘉永元年(1848)に帰郷して、妙円寺境内に私塾「清狂草堂(またの名を時習館)」を開き、赤根武人・世良修蔵・大楽源太郎ら多くの人材を育てました。安政3年(1856)には、京都本願寺の貫主に招かれて上京、このときの言上書が「仏法護国論」でした。
月性は、門徒・藩の重鎮・志士に限らず大衆にまで、この護国論の愛国と海防を語りかけたので、県民はお年寄りから「ゲッショウ」の名を聞かされていたのです。「海防僧・月性」と呼ばれながら多忙の日を過していた月性は、安政5年(1858)5月10日、日本の夜明けを待たず42歳の若さで生涯を閉じました。
清狂草堂跡(写真)と墓が妙円寺境内にあります。
天神さまの臥牛
もう、随分前のことですが「天満宮に如何して牛がいるの?」といったら「天神様が農耕の神様だからじゃろう」という者がいまして、それ以後も防府天満宮にお参りはしても、別に「何故」という疑問を感じたことはありませんでした。
ところが丑年ということもあって、一寸調べてみたので記録しておきましょう。
先ず天神様(菅原道真公)は、第56代仁明天皇の承和12年(845)6月25日、つまり丑年丑の日の生まれ、元服が貞観元年(858)2月の丑の日、薨去が延喜3年(903)2月25日、丑の日という因縁があるそうです。
また『元服の日に、松の大木が大風で倒れ、つないでいた白い牛が圧死した夢を見られ、これを気にかけて、自分が白牛を描いて丑の日に祀られた』という話があります。
それから『寛平5年のこと、茸狩に出かけていると何処からともなく白い仔牛が現れて道真公になつくので連れ帰って、のちに牛車を引かせていました。ところが7年経った延喜元年(901)正月24日夜、突然に白牛は屋敷から姿を消しました。翌日、宮中からの勅使は道真に左遷の命を告げたのです。一行が九州に発とうとした時、藤原時平の放った刺客に襲われ危機一髪というときに、忽然と白牛が現れて刺客を撃退し道真公はこの牛に乗って九州に赴いた』という、話もありました。
さらに、道真公の遺言に『自分の遺骸は人に曳かせず、牛に乗せて牛の行くところに留めよ』というのがあり『この遺言によって、牛に導かせたところ東へ歩いて安楽寺の近くで牛が座り込んでしまい動かなくなったので、その場所を墓所とした』といいます。
天満宮、天神様に、牛の像があるのは、道真公が「牛」を大変に可愛がり深く慈しんだことからのようで、ほとんどは『臥牛』(時には天神様が乗られたものもある)のようです。
ところが、ビンズル尊者のように「撫で牛」として信仰されているのか、何処の『臥牛』も、テカテカとツヤがあるようです。(写真は防府天満宮の臥牛)
赤ベコと隠岐横綱牛
今年、平成21年(2009)の干支は「己丑」ですが、日本人は、何かにつけてその「十二支」と、暮らしや運勢に関りを見出そうとします。
「丑」は「牛」に通じて、日本では弥生時代から農作業に牛を用いていたといわれ、農耕には欠かせない動物でした。また民間信仰では「牛」が農耕神の使いであるとも信じられ大切にしたようで、郷土玩具には、車をつけて曳いたり、首振りで楽しんだり、闘牛を表現したりと多採に登場します。もちろん天神との結びつきがあって牛乗りの天神人形もあります。
今回の写真は、私が旅に出かけたときの想い出のものですが、郷土玩具「赤ベコ」と「隠岐横綱牛」を掲載しました。
先ず「赤ベコ」ですが、会津地方では「牛」のことを「ベコ」と呼んでいます。赤ベコの玩具が出来たお話は『今から約1200年前の大同2年(807)、福島県柳津町の円蔵寺虚空蔵堂建立するとき、水量豊富な只見川から陸揚げされた木材を運ぶのに牛が利用され、多くが険しい作業で倒れる中、最後まで働いたのが赤色の牛だった』ということから、何時しか重荷に耐え壮健に育つようにと、子どもの誕生に「赤ベコ信仰」が結びつき、頭を胴内に差込み振り子のようにした、ユーモラスな赤色の張子が出来上がったといいます。
今では「厄病除け」の会津の民芸玩具として親しまれているようです。
一方の、横綱牛は『約800年前の承久の乱で、隠岐に流された後鳥羽上皇を慰めるために始まった「牛突き」が、禁令の目を掠めながらも、健全な島の娯楽に発展し伝統行事になった』ことに由来する、巨牛の激闘を勝ち抜いた「横綱牛の土俵入り晴れ姿」を表現する、新しい土産品として創作されたものです。そこには明るい平和な島の歴史が彩られています。
「牛の歩みも千里」壮健で慌てずゆっくりと行きましょうよ。

