外遊を志した晋作
「一里行けば一里の忠・・」高杉晋作の決起による俗論派打倒は、すでに元治元年9月に決定していた藩是「武備恭順」を復活、藩庁の山口移転を実行させました。しかし、幕府と長州の関係がこれで解決したわけでもなく、幕府の出方次第では、挙藩一致の倒幕、決戦の準備を確認したに過ぎませんでした。
晋作は、このとき佐世八十郎(前原一誠)に、藩内軍事体制と防御の配備について長い手紙を送っています。その中にはほかに諸隊への論功行賞、俗論派の人たちへの家名再興さらに下関の開港、自らは英国行きを希望していると書き添えていました。
下関市立美術館で開かれた、長府博物館企画展「馬関英雄伝」(1/20~2/1)に、萩博物館から帰ってきた「晋作の遺品」があり、その中に、防長割拠の具体策や馬関開港の必要性などを書き綴った『回復私議』もありました。
『民政正しければ、すなわち民富む。民富めばすなわち国富み、すなわち良器械も求められるべし・・』この部分が好きなのでと、担当の方はそこを開いていました。「政治の目標は人民を富ますこと」という晋作の主張が見られますが、私は表紙にある「東行庵」の蔵書印も久しぶりに見たい気持ちがありました。
余談になりましたが、このころ晋作は「長州が割拠して四境と対峙している間に、外国を見てきたい」との気持ちが高ぶり、伊藤俊輔を誘い表向きは「横浜へ世情探索」として旅費を調達し長崎に赴いたのでした。
ところが、長崎では英国領事ラウダーと商人グラバーから「幕府は第2次長州征伐を計画中、今は洋行する時期ではない。それよりも長州は独立して下関の開港をしてはどうか」と説得され、元々、下関開港は晋作の持論でもあって外国貿易に方向転換、あっさりとまた下関に帰って来たのです。
写真は、『回復私議』と長崎のグラバー邸。
和同開珎と富本銭
『広辞苑第4版』で「和同開珎(わどうかいちん)」というのを見ると、「和銅元年(708)に発行された我が国で初めて鋳造された銭で、全国数ヵ所で鋳造された。その中に長門(下関市長府)などで遺物が発見されている」と記載されています。長府の覚苑寺境内には『史跡長門鋳銭所跡』の碑が建ち、出土遺物は『長門国鋳銭遺物』(重要文化財)として長府博物館に所蔵されています。
ところで先日、奈良県明日香村に平成13年9月に開館した万葉文化館を訪ねましたが、そこが「富本銭(ふほんせん)」の工房だったことを知りました。
「日本最初の貨幣・富本銭の発見」というニュースが流れたのは、平成9年のことでした。それまで“貨幣が最初に作られたのは下関の長府”だと思っていた私は、そのとき頭の中がパニックとなりましたが、そのことさえ忘れていた現場に着いて“あの「富本銭」の発見現場”と知ったときは驚きでした。
発見のいきさつは、健民グランドや飛鳥池の場所に万葉文化館建設が決まり発掘調査したところ、飛鳥池工房遺跡(史跡)の発見になったというものです。そこは、金・銀・ガラス・水晶を加工する工房、銅や鉄を鋳造する工房、漆工房まであったといわれます、特に注目されたのが「富本銭の発見」でした。それも鋳棹(銅を流し込んだ部分)や鋳張り(削り残し)のある富本銭、鋳型や仕上げの砥石などの発掘もあったといわれます。
万葉文化館の建設は、工房遺跡の発掘現場を復元する形で中庭に取り込み、館内には発掘成果の一部を展示する部屋を設けるなど“遺跡と共存”させて開館されたものでした。
万葉文化館は「万葉集」を軸に、「展示」「調査・研究」「図書・情報サービス」の機能を備えた古代文化の総合拠点としていて、展示の一つは、現代の日本画家154人による万葉集のイメージを表現した作品を集めた「日本画展示室」。もう一つは、万葉の時代を、当時の市場・歌の広場・職人・遊びなどを立体で展示したものや、アニメーション映画の上映などを行う部屋があり、屋外には、万葉人の詩情を駆り立てた植物を集めた庭園などもありました。
「遺跡共存」という新しいミュージアムの状況を見て、あの“富本銭のショック”も今は私の中で薄らぎ懐かしささえ感じています。
写真は、奈良県立万葉文化館中庭と富本銭(レプリカ)
早春賦のときめき
木枯らしの厳しい年の瀬でした。なんとか新年を迎え、寒を過ぎ春が近付くと、やはり思い出し、つい口ずさむ歌があります。
♪春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
♪氷解け去り 葦は角ぐむ さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空
「早春賦」には、早く春が来て欲しいと心踊りときめく、希望をかき立てる喜びが「詩」の中に潜んでいるような気がします。
世の中に、経済不況や就業率低下の波風が立っていても、新成人が誕生し、卒業、入学などと人生の節目がやって来て、当事者で無くっても「生きているって素敵だなあ」と思うのです。それは、生きていればこそ味わえる喜び、醍醐味でもあります。
♪春と聞かねば 知らでありしを 聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
「早春賦」は普通、3番のこの詩までは歌われませんが、そこには大きな詩の意味があるような気がします。知らないでいればそれですむものを、知ってしまったからは、という自覚を促す一節です。
入学して学校に行く。卒業して社会人になる。成人式を迎える。結婚する。それぞれの節目に自覚するのです。「いかにせよとの」思い、自分を見つめ新生活への期待が膨らむ、その戸惑いと希望が『自分らしく良く生きる』を考え、そして自分の道を踏みだすことになるのです。
この歌は、大分県臼杵市出身の吉丸一昌氏が信州安曇野で作詞し、中田章氏が作曲。『新作唱歌』に発表されて学校唱歌となり歌い継がれました。
関門海峡は「東流西流」を繰り返し、日本には春夏秋冬の四季があります。
「ときには、こんな自覚があっても良い」と、大自然が囁いているようです。