桜山神社は日本最初の招魂社
高杉晋作が、四国に亡命し長州に帰ってきたころ、中岡晋太郎や坂本龍馬らは、薩摩と長州の和解さらには同盟に向けて、桂小五郎と西郷隆盛を引き合わせる話を進めていました。晋作が、馬関に戻って早速呼び出されたのは、西郷が下関(馬関)にやって来る約束を不意にした時でした。
晋作は、「今、長崎の商人は幕府を恐れて、直接長州に武器を譲ってくれない。倒幕に他藩の力を借りたくはないが『薩藩に新式の銃や軍艦を長崎で購入して呉れれば』と条件付で、坂本さんに言ってみたら如何なものか」と提案しました。
桂小五郎は「それは無理だ」「無理だから言ってみるんですよ。これで、坂本や西郷の気持ちがどれ程のものかわかる」。このことが中岡らに伝えられて、武器調達の便宜だけは実現し、伊藤らによる武器の買い付けにより、ミネール銃4300挺、ゲベール銃3000挺、軍艦ユニオン号が、8月26日に馬関に届きました。
晋作は、早くから戦死した同志のことを悼んで、招魂場を作ることを白石正一郎に相談していて元治元年(1864)には「岡の原」(現在の桜山神社)に用地を確保していました。そこは萩本藩が新地開作のとき土砂を削り取った場所で、整地作業にはあまり手がかからない場所でした。
その後、四国連合艦隊の襲来、俗論派の台頭、功山寺決起と続き、建設の機会がなかったものの、挙藩一致の結束が固まったこの時期にきて。晋作はしきりに亡き友のことが思われるようになったのです。遂に、慶応元年(1865)7月、上棟式を行い、8月6日には落成の祭典が行われました。
その桜山神社こそ、わが国最初の招魂場(靖国神社)といえるものです。
晋作は、奇兵隊士らとともに祭事に参加して『弔らわる人に入るべき身なりしに弔むらう人となるそはずかし』と詠み、漢詩も残しています。
桜山神社には、松陰や晋作、小者竹蔵や喜八も同じ形による神霊標が396柱祀ってあり日本最初の「無名戦死者の墓」といえましよう。
今年は創建から144年目です。毎年、桜の咲くころには崇敬会の方々による祭典が行われます。
晋作、四国に逃亡
外国貿易、夢の実現に長崎から下関に引き返した晋作は、当時、藩の外国応接係となっていた井上聞多らに事情を告げ、賛同を得て藩に連言、藩も早速二人を外国応接係に命じました。
ところが当時は、竹崎が清末藩、新地に本藩領があるだけで、下関の大半は長府支藩領となっていました。本藩は、領地の交換を早くから両支藩に申し入れていたのですが、これには色よい返事もしていませんでした。こんな時、開港の話が漏れ、幕府からも下関開港計画の話が小倉藩から聞えてくると、下関開港論は本藩の利益独占だと長府報国隊士たちが騒ぎ出しました。
これを企んだのは、高杉、伊藤、井上らだと険悪な情勢になってきました。
これに対して藩は「異国交易の儀、強いてこれなく‥‥‥」の布告を出し彼らの
外国国応接係も止めさせましたが、報告隊士らの怒りが只ならぬものと察した晋作は、そこは逃げの本領発揮、皆んなで藩外の情勢を探ろうと変名して、相次いで藩からの脱出をはかりました。
晋作は、備後屋三介と名前を変えて商人に扮し、愛人おうのともう一人商人を連れて、四国の道後温泉、それから讃岐の金刀比羅宮に参詣、そこの詩人で侠客の日柳燕石のもとに潜入しました。この時晋作は紅屋喜助と変名しています。日椥の世話で讃岐の各所に匿われていて、ここから下関の入江和作などに手紙を出し、路銀も用立てて貰ったようですが、潜伏が高松藩に漏れて追われる身となり備後の鞆浦に移りました。日柳燕石は晋作を庇護したことで捕らわれ高松藩に4年間幽囚されています。
このころ慶応元年5月、いよいよ長州再征の動きが盛んになって来たとき、一足早めに桂小五郎が帰藩していて、伊藤から事情を聞いた桂は早速、長府・清末両支藩重役に領地交換など白紙に戻すことなどを約束して、藩士らの鎮撫をはかったのです。こうして鞆浦の晋作と別府の井上に帰藩を促し、桂を軸に主だった志士たちは「尊皇開国」日本独立の将来に画策を話し合うのです。
吉野山へ(2)
吉野山は全山に広がる桜に因み、下千本とか中千本など四地区に分けられていますが、金峯山寺から尾根伝いに南下する自動車道で高度を上げ、中千本から上千本を越えて直線距離で4キロほど、曲がりくねった道を進み標高は500メートル位でしょうか、一帯は奥千本といわれる山奥に到着します。そこは桜というよりも吉野杉の大木のなかに金峯神社がありました。拝殿の屋根から、木漏れ日に輝くツララが下がり、山蔭にいくらか雪も残っていましたが寒さはさほど感じませんでした。
境内の左奥には、追われる身となった源義経の隠棲の場所がありますが、拝殿の手前に「西行庵まで500メートル」と標識がありました。
500メートルならと歩き始めましたが、その距離がこれほど辛いと感じたのは初めてでした。周辺は良く手入れが行き届いた吉野杉の林です。登りの続く杣道で、ときおり霜柱を踏む「サクサク」という快感の響きがあります。300mほど登ると尾根に出て、山上ヶ岳への路から分かれて今度は益々狭い旧坂道を下ります。足は霜柱を砕いて登ったせいか冷え切っているのに、身体は汗びっしょりに火照っているのです。こうして500メートルの難行苦行、後期高齢者、運動不足の私は、結構疲れてすでに限界に近い息づかいでした。修験道の足元にも及びません。僅か15分位だったでしょうかが「ホッカリ」とした南面の陽だまりに着きました。
西行庵は、当然当時のものではありませんが、自然木を柱にした二間四方、前面の中央一間を開放にして、他は土壁、屋根は桧皮葺だったでしょうか。板張りの部屋中央に上品上生の西行像が据えて有りました。庵の近くに馬酔木の木、桜もあったようですが、ほとんどはカエデの高木で、今はすっかり落葉しているので明るいのですが、秋の紅葉は見事だろうなと想像するだけでした。
西行が吉野に入ったのは、壇ノ浦で平家が滅亡する時期です。戦乱の世を避けて移り住んだのでしょうか。西行は吉野の桜を愛してしばしば訪れたともいいますが、物見遊山とも一寸違っていたようでした。
吉野山やがて出でじと思う身を花散りなばと人や待つらん
とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなき住居かな
花が散った後も、岩根を枕に山の木の実を拾いながら禅定し、やがて熊野に移動していきます。
庵の近くには、清水がほとばしり側に芭蕉の句碑も建っていました。