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吉野山へ(1)

Issay’s Essay-吉野山へ1

 本来なら、花の吉野といきたい所ですが、大寒の最終日である「2月2日に宿が取れたよ~」と連絡があったので「大和の吉野山」に出かけてみました。
大意が有ったわけでもありませんが、昨秋、飛鳥を訪問したときに、斉明天皇が離宮を営み、持統天皇は31回も吉野に行幸、天武天皇は吉野を讃えて万葉歌を残していることを知りました。


よき人の よしとよく見て よしと言いし 
吉野よく見よ よき人よく見つ
   (巻一・二七 天武天皇)


 当時は、サクラがあるでもなく、仙境として吉野の山を崇め、吉野川(紀の川)の美しさに心惹かれていたのでしょうか。
 「サクラは無くても魅力が何か有るに違いない」と、ふと思ったのです。
 吉野は初めての旅でした。もちろん修験道の総本山である金峯山寺は目標の一つで、宿はその近くです。
 金峯山寺本堂の蔵王堂は国宝で、木造建築では奈良の大仏殿に次いで大きく総高34mの吉野山のシンボルといわれます。二抱えもありそうな自然木の柱が68本、中にはナシとかツツジの木と書かれたものがあって驚きでした。その日は、節分が来る準備で音響設備などをセットされる最中で境内には、一寸そぐわない雰囲気になっていました。
 吉野山といえば、私には、もう一つ寄りたい西行庵がありまして、この日、そこまで目指しましたが難行の一時でした。
 文久3年3月、高杉晋作が剃髪して「東行」という号を用いるようになりますが、これは、西方浄土をめさした文武両道の西行法師の「西行」に対して、江戸の東を見据えた倒幕を秘めて号した、晋作の洒落心といわれます。
それは、晋作が奇兵隊を結成する3ヶ月位前のことでした。

「花も嵐も」の季節

Issay’s Essay-別館

 下関の3月といえば、前回の綾羅木郷遺跡もありますが、金子みすゞ、田中絹代、藤原義江の命日があって、何かと催しがあります。中でも今年は、何といっても田中絹代生誕100年の年に当ります。
 今年の「花嵐忌」には、第63回毎日映画コンクールの田中絹代賞を受賞した余貴美子さんが来館される予定と聞いていますが、彼女は「おくりびと」「まぼろしの耶馬台国」などに出演され、年輪を重ねた地道で印象深い演技が認められての受賞と聞きます。
 田中絹代といえば、遺品が下関市に寄贈されて久しいことですが、今年1月になって、その遺品を常設展示する顕彰館の愛称が「田中絹代ぶんか館」に決まったようです。
 それは、市役所第一別館として使用されていた、旧逓信省下関郵便局電話課の庁舎で、大正13年(1924)に建てられたレトロ調の建築が利用されるとのことになりました。
 この建物は、唐戸地区が第二次大戦で焦土と化したとき焼け残った「戦争の証言者」でもあり、一時は解体の計画もあって、これには市民ぐるみで猛反対の保存運動が起こり残された経緯があります。その後、市の文化財となり、現在は全て覆われ耐震補強、改修工事などを行って来春1月には開館の予定だと聞きます。(写真)
 ただ並べ展示出来れば良いという、安易な箱物思想だけでも困ります。運用管理面に問題はないのでしょうか、名誉館長には、小説「花も嵐も」で直木賞作家の古川薫さんが就任される話もありますが、ご本人の考え方が何処まで反映されるのでしょう。
 例えば、「あるかぽ~と」とか、旧文化会館跡の「新下関図書館」或は「老の山公園」にしても、何時誰が、どの様に検討されたのか知らないまま、あたりは壊され、基礎が出来てと工事は進んでいます。
 近年の下関市の業務事情はほとんど、こんな状況で進捗されているようです。
 知ろうと努力しないのが悪いのでしょうか、まさに「花も嵐も‥‥」の気分です。透明性が掛けている様に思うのは、私のヒガミでしょうか。

3月8日という日

Issay’s Essay-土笛


今年もまた、3月8日がやってきました。国際婦人(女性)デーとかミツバチの日、などとなっていますが、下関では昭和44年(1969)「綾羅木郷台地じゅうりん事件の日」さらに11日は「綾羅木郷遺跡・史跡指定の日」として忘れられません。
 「また、郷台地かね!」と言われそうですが、あの産業開発、経済成長の最中に、遺跡保存を訴え続けた市民の葛藤がもたらした史跡の指定は、それ以後に続く。山内丸山、吉野ヶ里、上野原遺跡それぞれが特別史跡となってはいても、遺跡の重要性を行動で示し開発から守り抜いた原点が、綾羅木郷遺跡にあったことは紛れもない事実で、未来永劫下関市民の誇りであります。
 例えば、綾羅木郷遺跡からの出土品に「陶塤(とうけん)」が有ります。それは故・国分直一教授の論文が金関丈夫先生の古希記念論文集に、日本で初めて「陶塤の発見」として発表され考古学会の曖昧な反応よりも早く、興味を持たれたのが、地元在住の画家・松岡敏行さんだったのです。
 音楽にも憧憬のあった松岡さんは、発掘された陶塤が一部欠けている実測図を国分教授に貰って、試行錯誤のうえ卵形で吹口と前面に4つ後に2つの穴がある「弥生の土笛」として復元し、それがメロデーになることを確認され、採譜までして発表されました。そのことが、地元では文学作品になり、近くの小学校では児童たちの復元作業、演奏活動まで発展しました。
 「弥生の土笛」の響きは現代の「フク笛」に通じ、日本人の感覚にぴったりの癒しが有ります。
こうする内に、綾羅木からは6個の陶塤が発見され、これを契機に出雲・丹後の地方でも発見が報告されました。先日、出雲への旅をしたとき、そこで「弥生の土笛」が販売されているのをみて驚きました。肝心の下関の何処に、この「弥生の土笛」が販売されているのでしょう。
 巡りくる3月8日、土笛に限らず、私達はもっともっと綾羅木郷遺跡に親しみを持ち続けたいものです。
写真は山陰本線・綾羅木駅前にある「弥生の土笛」のモニュメントです。