Issay's Essay -227ページ目

平家物語(1) -長門本-


Issay’s Essay-平家物語①-長門本-




 寿永4年(1185)3月24日は、関門海峡で源平合戦が行われた日です。

 この合戦で崩御された安徳帝を鎮める下関の先帝祭は、従来4月24日に行われていました。これが新暦では5月上旬となるので、現在はゴールデンウイークの5月3日に開催されています。

 この華やぎの先帝祭・上臈参拝が行われる赤間神宮(阿弥陀寺)の宝物館には、『長門本平家物語』(写真)が展示されています。

 平家物語は、平家一門の繁栄と没落滅亡を叙事詩として描いた軍記物語で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の書き出しに始る有名なものですが。仏教の因果観、無常観を基調に琵琶法師によって広められ、謡曲・浄瑠璃など幅広く伝えられたといいます。

 この原本は承久から仁治のころ(1220~1243)に成立したと伝えられますが、読み本として延慶本・長門本・源平盛衰記、語り本として灌頂巻を加えた覚一本・流布本などがあるといわれます。

 長門本平家物語は、文明年代(1469~1487)に出来たものとみられ、20巻が阿弥陀寺に伝わっていました。内容的には、源平盛衰記に似ているといわれます。 

 この長門本平家物語は、戦前まで国宝に指定されていましたが、昭和20年7月2日、第二次世界大戦の下関空襲で被災しました。これが、昭和24年には、全巻が丁寧に補修され、現在は重要文化財に指定されています。

 全ページ、戦禍をそのままに左右対称に復元されている様子を見るとき,平氏の哀れさとともに、戦争の愚かさ空しさがひしひしと伝わってきます。それは、別の意味での無常観を私達に伝える平家本だと感じます。

 赤間神宮の一隅にある宝物館に、長門本平家物語を見るのも良い機会ではないでしょうか。

装飾古墳のこと(2)



Issay’s Essay-装飾古墳のこと②



 熊本県立装飾古墳館(山鹿市鹿央町岩原3085)は、装飾古墳をテーマにした博物館で、岩原古墳群(史跡)に隣接した同じ丘陵に平成4年4月に開館されました。

 本館の展示棟(鉄筋コンクリート造・延床面積約2100㎡)と、別館の実習室(鉄筋コンクリート造・延床面積683㎡)があり、安藤忠雄氏の設計となっています。館内には、チブサン古墳など熊本県の代表的な12基の装飾古墳の石室が、実物大のレプリカで配置されています。これは、実物を見るよりも明瞭に文様などの様子を間近かで見ることが出来ます。

 装飾古墳の最初は、交錯する斜線の間に直弧文や円文・三角文などと古い時代は呪術性・宗教性が強く、古墳時代も後期になると靭・弓・刀・武具や船そして人物像・動物などとだんだん具体的な図案となります。

 明日香の高松塚古墳の壁画は、天平美人を描いた具象的なものでしたが、山鹿のチブサン古墳の壁画は、まさに抽象画。その違いについて装飾古墳館の学芸員は「九州の古墳は5~6世紀ころのもので、明日香の場合は7~8世紀が主、古墳時代と呼んではいても仏教文化が入っていますから、精神文化が随分変っています。それに壁画の顔料なども違ったものになってきます」などと説明をされました。

 山鹿市城字西福寺のチブサン古墳(史跡)は、前もって申し込みをすれば石室内部の見学も出来ます。

 案内をされる方が古墳の近くにある石屋形説明用の模型(写真)の前で「あれは、何に見えますか?子供さんたちは鳥とかカッパなどと言いますが、大人の人はチブサン古墳の名称が先にあってか、お乳とか女の人だと言われます、そのことから“乳房とかお乳の神様”として信仰されています」と話されました。

 時代の変化、とりわけ当時の人たちの「死」に対する恐れ、精神性や呪術的な要因のほかに、私は当時の九州人には社会的な世相不安や歴史的な背景が、装飾古墳には現れているのだと感じました。

 現代社会の中で「装飾古墳の抽象画」を見ると、それぞれの装飾に案外、平成の世相を反映する空間恐怖を感じるかもしれません。

装飾古墳のこと(1)

Issay’s Essay-装飾古墳のこと①




 装飾古墳というのは、広辞苑によれば「横穴式石室や横穴の壁面に彩色画または浮彫などの装飾を施したもの。九州北部に多い」とあります。

 古墳というのは、多くは当時の豪族とか有力者の墓で、円墳・方墳・前方後円墳あるいは横穴古墳などと形式によって分けられます。造られたのは、3世紀初めから6世紀半ばまで約400年の間というのが一般的ですが、7世紀後半までとする500年間をいう方もあり、この間に15万或は30万も造られたと、数はまちまちです。

 現在、確認されている装飾古墳は全国に657基あるといわれ、仮に古墳の数が15万基とした場合でも「0.4%」という僅かな数なのです。その、全国657基の装飾古墳のうち九州には367基(56%)、その内196基が熊本県に在るそうです。中でも117基(全国の18%)は菊池川流域に集中分布しているというのです。

 中国で、古墳の壁画が現れるのは後漢時代ですが、それが高句麗に伝わり4~5世紀に最盛期を迎えます。これが日本に現れるのが5世紀からで、最初は有明海東岸から広まり瀬戸内から近畿、関東に伝播して北限は宮城県あたりとなっています。

 昭和47年(1972)の発掘調査で、石室に遺存状況が良好な極彩色の壁画が発見された高松塚古墳(写真)、それは中国の四神思想のよる玄武、青龍などに加え朝堂儀礼の男女4人づつの群像、天井には星宿が描かれて、7世紀末ごろの貴人の墓と推定されています。

 昨年、私は天平美人に引きつけられて高松塚古墳に行きましたが、説明されていた人は「装飾古墳の本場から来られた方に説明するのは恐縮ですね」といわれました。

 たしかに、私達は北九州の竹原・王塚・日岡古墳などを巡って多くの装飾古墳には接していますが、図柄は全く異なり、そこに魅力も感じていましたが改めて装飾古墳の本場といわれると、少しばかり冷や汗ものでした。