晋作、四国に逃亡 | Issay's Essay

晋作、四国に逃亡

Issay’s Essay-晋作四国へ

 外国貿易、夢の実現に長崎から下関に引き返した晋作は、当時、藩の外国応接係となっていた井上聞多らに事情を告げ、賛同を得て藩に連言、藩も早速二人を外国応接係に命じました。
ところが当時は、竹崎が清末藩、新地に本藩領があるだけで、下関の大半は長府支藩領となっていました。本藩は、領地の交換を早くから両支藩に申し入れていたのですが、これには色よい返事もしていませんでした。こんな時、開港の話が漏れ、幕府からも下関開港計画の話が小倉藩から聞えてくると、下関開港論は本藩の利益独占だと長府報国隊士たちが騒ぎ出しました。
 これを企んだのは、高杉、伊藤、井上らだと険悪な情勢になってきました。
 これに対して藩は「異国交易の儀、強いてこれなく‥‥‥」の布告を出し彼らの
 外国国応接係も止めさせましたが、報告隊士らの怒りが只ならぬものと察した晋作は、そこは逃げの本領発揮、皆んなで藩外の情勢を探ろうと変名して、相次いで藩からの脱出をはかりました。
 晋作は、備後屋三介と名前を変えて商人に扮し、愛人おうのともう一人商人を連れて、四国の道後温泉、それから讃岐の金刀比羅宮に参詣、そこの詩人で侠客の日柳燕石のもとに潜入しました。この時晋作は紅屋喜助と変名しています。日椥の世話で讃岐の各所に匿われていて、ここから下関の入江和作などに手紙を出し、路銀も用立てて貰ったようですが、潜伏が高松藩に漏れて追われる身となり備後の鞆浦に移りました。日柳燕石は晋作を庇護したことで捕らわれ高松藩に4年間幽囚されています。
 このころ慶応元年5月、いよいよ長州再征の動きが盛んになって来たとき、一足早めに桂小五郎が帰藩していて、伊藤から事情を聞いた桂は早速、長府・清末両支藩重役に領地交換など白紙に戻すことなどを約束して、藩士らの鎮撫をはかったのです。こうして鞆浦の晋作と別府の井上に帰藩を促し、桂を軸に主だった志士たちは「尊皇開国」日本独立の将来に画策を話し合うのです。