長州征伐令と高杉晋作の亡命
元治元年(1864)8月14日、四国連合艦隊との講和がなって此方の紛争は一応決着したものの、8月3日に幕府から出ていた長州藩討伐の進発令を受けて、長州藩内では、幕府に対しての対処が二分していました。
敗戦続きで分の悪い急進派は後退し、藩の実権は椋梨藤太らを中心にした俗論党に傾きかけ、これまでの方針を変え幕府に謝罪しようという「謝罪恭順」と、一応幕府に従うふりをして武力を蓄えようという「武備恭順」という二つの意見に分かれていました。
9月25日の藩主親子を前にした会議で、井上聞多(後の馨)の強硬な意見がとおり、藩主は「武備恭順」の結論を出したのです。ところが、その翌日の夜、井上聞多は、山口の町外れ「袖解橋」で待ち伏せていた俗論党の刺客に襲われ瀕死の重傷を負いました。
これを契機に俗論党が実権を握り、公儀にたてつく者は獄に入れて切腹・斬首、急進派に対しての「血の粛清」、が始ったのです。急進派の指導・応援をしていた周布政之助も「藩に危機をもたらした」と捕らわれる前に自殺しました。
講和を果たした晋作は、萩の自宅に閉居を命じられていて、そこで井上の遭難や周布の悲報を知ったのです。10月5日、長男・梅之進(東一)が生れます。
10月21日、諸隊の解散令が出ました。そのとき晋作は「捕らえられれば殺される」と予感します、24日夜半に亡命を決め、谷梅之助と名前を変え変装して脱獄しました。道中、井上を見舞い、防府から下関へ、そして行く先は福岡の平尾山荘(写真)でした。そこには野村望東尼が住んでいます。幼少のころから読書に親しみ24歳の時、福岡藩士の野村新三郎の後妻になりますが、夫の死後剃髪して尼となりますが優れた歌人でした。また、夫の影響も有って早くから勤皇思想に目覚めていましたから、追われる多くの志士たちをかくまっています。
晋作は、約20日間ここに潜伏して、長州の状況をみていますが、11月中旬になって、長州藩の、血の犠牲は益田右衛門・国司信濃・福原越後の三家老切腹、宍戸ら四参謀の斬罪、さらに重要人物七人の首が撥ねられた事を知ります。まさに安政の大獄「長州版」で幕府の長州征伐を逃れんとした残酷な処置でした。「もはや逃げ回っている時ではない」と決意を決めた晋作は、11月21日「ご恩は一生忘れません」と望東尼に分かれつげて、11月25日には下関に帰ってきました。