気象台とフクと
このごろは何かあるたびに異常気象だ、地球温暖化の影響だといわれます。
ミャンマーのサイクロンや中国四川の大地震は、連日のニュースを賑わしていましたが、岩手・宮城内陸地震が発生すると、救援の矛先も急に方向転換して海外の情報は少なくなりました。最近では、神戸や東京の集中豪雨による鉄砲水が、楽しいはずの水遊びの親子や下水管補修作業者を犠牲にしました。
人が月に立ち、宇宙ステーション「きぼう」も建設させるほど知力のある人間ですが、天災に立ち向かう英知は遅々として進んではいません。
下関に、測候所が設立されたのは明治16年1月で、全国的には19番目のことだったといいます。そのころは市内の古弁天山の民家を借りて、気象と海峡の干満観測を記録して東京気象台に報告し、同19年3月になってから八ヶ迫大山(現・名池町)に移転して同5月22日から観測を開始したことになっています。しかし風力計が設置されるのは翌年といいますから観測態勢はまだ幼稚なものでした。
地元の漁業者や水上関係者は、門司の風師山や古城山と火の山間の雲、空模様で、その日の天気を判断して生活に活かしていたので、明治25年に天気予報が出されるようになっても当てにもしない状況で、むしろフク料理屋のフクはあたった事がないので「下関のフクと測候所の天気予報」が、当らないものの代表格となったのです。
その後、観測技術は格段の進歩をとげ、下関地方気象台となったのが昭和32年(1957)9月1日、そして名池町から現在の竹崎町、県総合庁舎内に移ったのが昭和53年(1978)12月20日のことでした。今年は早くも30周年になります。
最近は、設備も学問も進み専門技術者も居られることでしょう。しかし、予報はよりシビアに要求される時代となりました。
「最近の天気予報は良く当るねぇ」という声も聞かれます。天気予報が当らないというのは筋違いで昔日の笑いごとでしょうが、むしろ、時たま買ってみる「ジャンボ宝くじ」で力を落としている私としては、下関の宝くじは、フク派なのか気象台派なのかと考えてしまいます。
フクの宅配が一年中出来る現在では、さほど季節に関係がないように感じますが、フクといえば「本ブク(トラフク)」です。やはりシーズンは、秋の彼岸から春の彼岸、橙(ダイダイ)が色づくワケギの収穫期、しかも燗酒の美味くなる季節です。ふるさとの味、ぼつぼつミガキでも買って帰りましょうか。
彦島租借の回避
写真:北九州市風師山から、関門海峡を隔てての下関市彦島の眺望
文久3年(1863)5月に、攘夷決行だと息巻いた長州軍は、アメリカ、フランスの軍艦に一泡吹かせたものの6月には軍艦が通りかかって長州軍は惨敗しました。そのとき、命を受けた高杉晋作が、下関で奇兵隊を結成しました。その後、教法寺事件が起こり晋作は奇兵隊総督を罷免、年が変わって亡命、投獄、謹慎などと下関から離れていました。
そして約1年、元治元年(1864)8月5日、関門海峡で攘夷戦として攻撃された、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4カ国は、その報復のため連合艦隊17隻で関門海峡に現れたのです。
それは、長州兵が京都に乱入し、御所に長州の弾丸が飛び込み「朝敵」の烙印を押された「禁門の変」から間もなくのことでした。長州ファイブとしてロンドンに着いた伊藤俊輔(博文)と井上聞多は、現地で下関襲撃の情報を知り、その復讐を止めさせようと急きょ帰国しましたが、すでに時間切れでした。
四ヵ国連合艦隊に、奇兵隊なども奮戦したが叶う相手でもなく、報復戦はほぼ3日間で大勢は決まりました。伊藤らは降伏と講和の段取りを進めて休戦となりました。当時の瓦版に「長門の国大火」と題して、前田から彦島にいたる下関の海岸線が火の海となった、連合艦隊襲撃を報じるものがあります。また、前田砲台を占領したイギリス軍や、前田海岸に乗り付けた舟艇に戦利品を積み込む写真などが残っています。
高杉晋作は脱藩者であり160石の録も没収されている身分ながら、この事態に講和の全権をゆだねる人物は外にない、と、また白羽の矢が立ちます。
藩は「家老・宍戸刑馬」と名乗らせました。萌黄色の大紋を着せ、断髪の上に烏帽子、礼装を調えた晋作は、8月8日、イギリス艦ユーリアラス号の甲板に2人の共を従えて現れました。
イギリスの持っていた「武鑑」の中に「宍戸刑馬」という名前の無いことがまず問題となり、これは上手くきり交わしました。交渉は第3回目の8月14日、藩はすでに「海峡の自由通行」「下関港で石炭・コメなどの必要な物資売却」など連合軍の示した5つの条件のうち4件を承諾、賠償金300万ドルは払えぬとして、高杉にまかせました。
相手はクーパー提督。賠償金は激論となりましたが「攘夷は長州藩独自の考えではなく幕府の命令だ、賠償金は幕府に請求されたい」と方向転換。・・・さらにクーパー提督が持ち出した難問は「下関の突端にある彦島の租借」でした。これは、連合軍の要求ではなくイギリスの野望だと、晋作は見ぬいていました。晋作は「それは絶対にお断りだ」と声を大きく言い返しました。
交渉の相手が悪かったのです。すでにアヘン戦争後の悲惨な状況を上海渡航で見聞していたことで、志士としての活動を開始した高杉晋作だったのです。14日、講和条約は締結しました。
講和使節・宍戸刑馬いや高杉晋作の毅然とした拒絶は、長州の危機を救い、ひいては彦島の租借、日本の植民地化の危機を避けた交渉でありました。
赤崎南条踊り
最近は、「青海島」よりも「金子みすゞ」や「焼き鳥の町」として有名になっている長門市ですが、江戸時代に築かれた日本に唯一つの円形楽桟敷があるのをご存知でしょうか。
長門市役所から南に約500mの深川小学校に隣接する丘に、赤崎神社がありますが、ここは近くの飯山八幡宮の境外末社で毎年9月10日の例祭には、神社の桟敷を利用して、楽踊りと南条踊りが奉納されます。いずれも山口県の無形文化財に指定されています。
先ずこの楽踊りについて、飯山八幡宮の社伝によれば「慶長5年(1592)の深川村内(現・長門市)に、牛馬の悪疫が大流行して、たちまち380頭が死ぬという惨状があり、牛馬の守護神を祀る赤崎神社に悪疫退散と平癒安全祈願をしたところ願いが叶い、村内では各集落ごとに神恩奉謝の楽踊りを奉納することになった」とあります。
以前は「赤崎の七楽」といって、今に伝わる「月の前の怜楽」「虎の子渡し」「南条踊り」の他に「獅子の胴入り」「華表潜り」「鶏頭」の楽と「芝居」が奉納されていたようです。
こうした楽踊りは、田植神事の田楽舞、虫送り神事、念仏踊りなどから派生したもので、頭屋、法螺貝、鉦叩き、警護、団扇使い、杖使いなどの役のほか、ここでは胴取りが、華麗な花飾りを頭につけ、太鼓を叩きながら飛び跳ね乱舞するのです。
また湯本南条踊りは、戦国の天正年間、吉川元春が伯耆の羽衣石城(うえしじょう・鳥取県東郷町)の南條元続(もとつぐ)を攻めたとき、人質が伝えた南條家の踊りを利用し、数10人の踊り子を仕立てて城に入り攻略に成功したという故事を持つ豪壮華麗な武略の踊りです。現在、岩国市では安芸国新庄から吉川氏が伝えた南条踊りがあり、長門市の場合は江戸時代に吉川氏から許されて俵山に伝えられたものが、湯本に伝授され奉納されるようになったものです。
さて、この奉納芸能の観覧席となっているのが赤崎神社楽桟敷で有形民俗文化財に指定されています。これは、神社西側の「すり鉢状の谷」を巧に利用して、石積みの野外円形劇場にしたもので、総面積は約1,600㎡といいます。
昭和37年(1962)の第18回山口国体で、ここに相撲会場が設営されることになり楽桟敷が潰される危機がありました。これに対して民間から保存運動が起こり、桟敷の一部は壊れたものの、ほぼ全容が保存された経緯があります。
江戸時代から営々と楽踊りに利用され、建築史、演劇史、民俗学などからも貴重な遺産「楽桟敷」は、民衆の祈りが伝わってくる「空間」として、現在も市民に守られ親しまれています。