Issay's Essay -241ページ目

高杉晋作・脱奇兵隊の1年

27高杉晋作・脱奇兵隊の1年

 奇兵隊と先鋒隊がいがみ合い衝突した翌日の、文久3年(1863)8月17日は、吉村寅太郎らが中山忠光卿を奉じて大和に挙兵して敗れ(天誅組の乱)、さらに翌日8月18日は、朝議が一変して三条実美ら七卿が西下して長州に向かうという大変な事態が京都で起きていました。いわゆる8・18の政変で、御所の警護に当たっていた長州兵は、任を解かれて帰国させられたのです。
 その後、長州藩の地位回復を願う志士たちの努力も成果が上らず、藩内の焦りはやがて武装兵を京都に向けようとする強硬論が勢いを増してきます。
 来島又兵衛や久坂玄瑞らは出兵急進派、周布政之助は「今出兵すれば藩が滅亡する」と反対、桂小五郎は「先ず諸藩と連合するのが良い」と慎重。文久3年の長州藩内は暴発寸前の様相で暮れ、年が変わると早速「来島の軽挙を抑えよ」と命を受けて晋作は、防府の宮市にいた来島に面会をしました。
「異国艦隊が、長州襲撃の話が伝わっている・・」晋作が説得しようとする間もなく「160石にしがみついて、お前は臆病者になったのか」と、逆に又兵衛に罵られ、侮辱された高杉は「べつに録などが欲しいのではない。ウハの進発は、聞くも腹が立つ」とそのまま復命もせずに、晋作は上方に飛び出してしまったのです。本人にしてみれば、京都に情勢を探ってからという心算だったとしても、それは狂気じみた脱藩でした。
 桂小五郎の説得で長州に戻った晋作は、覚悟をしていたとはいえ捕らわれて、3月29日、かって松陰が居たと同じ野山獄の人となりました。
「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」晋作は、ここで猛然と読書し詩を詠みました。6月には、出獄して父・小忠太預けの謹慎、8月3日に罪も解かれて手当用掛を命じられます。
 世相は、6月の池田屋の変のとき吉田稔麿らが死に、遂に暴発した7月19日の蛤御門の変では、来島又兵衛戦死、久坂玄瑞や入江九一らが自刃、8月3日には将軍家茂が長州藩討伐の進発令を発します。
 そのとき、長州を狙っていたのは米英蘭仏四国連合艦隊で、まさに内憂外患の状況の中に、下関は、元治元年(1864)8月、亀山八幡宮の五穀祭で賑わいの真っ盛りでした。

教法寺事件



 馬関(下関)防衛の使命を受けた高杉晋作は、画期的な奇兵隊を創り、当面、前田・壇之浦の両砲台再建を、住民の協力も得て1ヶ月ほどで成し遂げ7月6日には早くも試し打ちも行っています。このとき萩本藩の藩士による先鋒隊は壇之浦砲台、奇兵隊は前田台場を分担警備していました。
 ところが、町人の参加する奇兵隊を“烏合の衆”と軽蔑する先鋒隊に対して、惨めな攘夷戦を見ていた奇兵隊の連中は“腰抜け侍”とののしって両隊の間には、互いに感情的な対抗意識が生じていたのです。
 こうしたときに、萩本藩の世子・定広(後の藩主・元徳)が、下関の砲台視察にやって来て、奇兵隊の訓練を先にみて日没となり、先鋒隊の訓練を見る時間が無くなってしまったのです。
 折角の名誉な機会を失ったのは、奇兵隊に好意を持ち、自らも奇兵隊に入隊している、赤間関総奉行使番・宮城彦輔の画策に違いないと、世子の振舞酒の勢いをかって「宮城の宿舎を襲う」との話題が持ち上がっていました。先鋒隊の中にも、宮城に通じている者もいて、このことが宮城のもとに知らされると、宮城は高杉晋作の宿舎に相談に訪れます。
 これが、そもそものきっかけで大事件となったのです。
 文久3年(1863)8月16日、晋作が先鋒隊の屯営になっている教法寺にむかい談判の途中に、赤根武人に知らされた奇兵隊士らが押しかけ、談判はエスカレートし、屯所の暗闇からは先鋒隊士の「斬ってしまえ」と言う声が聞え、小銃の発射もありました。これに激昂した奇兵隊士は寺内に乱入し、先鋒隊士はいち早く逃走したものの、病気で伏せていた先鋒隊士の蔵田幾之進を死亡させました。
 藩では、この事件に対して宮城彦輔に切腹を命じ、奇兵隊は小郡に転居、先鋒隊は下関から引き上げ、同時に高杉晋作は奇兵隊総督を9月12日付けで、その地位を免ぜられました。後任は河上弥一と滝弥太郎の両名となりました。
 宮城の辞世「とにかくに死におくれぬぞ武士(もののふ)の 誠をつくす道にはありける」を遺し奇しくも51歳の誕生日、介錯は河上弥一でした。
 喧嘩両成敗でもなく、喧嘩を仕掛けられた側の宮城が一方的な犠牲になり、生死を共にした河上が介錯、しかも宿敵、先鋒隊の屯所での執行だけに河上の胸中には、藩に処置に対する「不条理と無念さ」が渦巻いていました。
 宮城切腹の儀が8月27日に行われたことで、表面上は一応終止符を打ちましたが、その火種は、正義派と俗論派の藩内対立に益々勢いを増すことになって行きます。晋作もまた、奇兵隊結成から僅か3ヶ月での罷免「自ら大失策」と悔やんだ事件でした。
 教法寺は、下関赤間町にある浄土真宗のお寺で、戦災により焼失しましたが再建されています。

数方庭の興奮

数方庭

 チャントト、チャントト、ホイホイホイ・・・
 太鼓と鉦の音のリズムが宵の城下町に響いてくると、もう体がじっとしていません。古くから「長府の華」「天下の奇祭」と言われている長府忌宮神社の数方庭行事のお囃子です。忌宮神社の例祭の中でも重要な神事の一つで、山口県の無形民俗文化財に指定されています。
 忌宮神社は、仲哀天皇が西暦193年、穴門の豊浦津に豊浦宮を造営されたところといわれています。
 仲哀天皇7年7月7日、九州の熊襲を煽動して、新羅軍が、豊浦の皇宮に攻め寄せたとき敵の首領・塵輪(じんりん)を、帝は自らの弓で射斃されると、賊軍、色を失って退散。
 この勝利に皇軍は矛を立て刀をかざして鬨の声をあげ、人々は旗を振って塵輪の骸の周囲を踊り舞ったと言います。塵輪の首は、土中に埋め、その上に大きな石で覆いました。塵輪の顔が鬼のように見えたことから、その石を鬼石と呼ぶようになったと伝えています。その後、神功皇后の三韓ご出陣や凱旋の際に鬼石の周囲で舞技を行ったといわれ、これが数方庭の起源とされています。数方庭(スホウティ)は、スホーデイ、スホーデン、スッポウディなどと呼ばれ、数宝庭、数方勢などの当て字もあるようです。
 長府3代藩主・綱元のとき、矛や刀は幟棹や切籠の変ったようですが、現在まで町家の心をこめた協賛行事として受け継がれてきました。
 8月7日から13日まで、毎夕7時半に1番太鼓があがって鬼石に据えられると、笹飾りの切籠を持った女児や、鉢巻に御幣をさした男児が親に連れられて鬼石を廻ります。ササの葉擦れの音が心地よく和やかで優しいひとときが流れます。
 一瞬、静寂を破って太鼓の音。庭は小幟をかざした子供や、中幟を持つ中学生たちの舞台に変り、このころから鉦や太鼓の囃子に合わせて調子をとりながら回るようになります。夜空に竿先の旗が「ホイホイ」の掛け声と一緒に舞うのです。やがてそれは大幟に取って代わり、中には長さが30メートル、重さは100キロもある大矢(長府では大幟のことを大矢と呼んでいます)を、腰帯にひっかけてバランスをとりながらベテランの大人たちの登場になります。広庭は、まさに勇壮な世界、クライマックスを迎えますが、上空には風もあり、中には元気だけの新人さんも居たりで、時に、バランスを崩して大矢が倒れることもあるので、観客も安閑としてただ見入るばかりではおれないスリルもあります。この一連が約30分、神社正面には次の太鼓がまた登り始めます。こうして、金屋組と総社組が交互で1日4回の、楽庭を務めます。
 まさに、典雅壮観、剛軟対照。夏ふるさとの本物の祭、興奮のルツボに感じ入るのも良いかと思います。