高杉晋作・脱奇兵隊の1年 | Issay's Essay

高杉晋作・脱奇兵隊の1年

27高杉晋作・脱奇兵隊の1年

 奇兵隊と先鋒隊がいがみ合い衝突した翌日の、文久3年(1863)8月17日は、吉村寅太郎らが中山忠光卿を奉じて大和に挙兵して敗れ(天誅組の乱)、さらに翌日8月18日は、朝議が一変して三条実美ら七卿が西下して長州に向かうという大変な事態が京都で起きていました。いわゆる8・18の政変で、御所の警護に当たっていた長州兵は、任を解かれて帰国させられたのです。
 その後、長州藩の地位回復を願う志士たちの努力も成果が上らず、藩内の焦りはやがて武装兵を京都に向けようとする強硬論が勢いを増してきます。
 来島又兵衛や久坂玄瑞らは出兵急進派、周布政之助は「今出兵すれば藩が滅亡する」と反対、桂小五郎は「先ず諸藩と連合するのが良い」と慎重。文久3年の長州藩内は暴発寸前の様相で暮れ、年が変わると早速「来島の軽挙を抑えよ」と命を受けて晋作は、防府の宮市にいた来島に面会をしました。
「異国艦隊が、長州襲撃の話が伝わっている・・」晋作が説得しようとする間もなく「160石にしがみついて、お前は臆病者になったのか」と、逆に又兵衛に罵られ、侮辱された高杉は「べつに録などが欲しいのではない。ウハの進発は、聞くも腹が立つ」とそのまま復命もせずに、晋作は上方に飛び出してしまったのです。本人にしてみれば、京都に情勢を探ってからという心算だったとしても、それは狂気じみた脱藩でした。
 桂小五郎の説得で長州に戻った晋作は、覚悟をしていたとはいえ捕らわれて、3月29日、かって松陰が居たと同じ野山獄の人となりました。
「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」晋作は、ここで猛然と読書し詩を詠みました。6月には、出獄して父・小忠太預けの謹慎、8月3日に罪も解かれて手当用掛を命じられます。
 世相は、6月の池田屋の変のとき吉田稔麿らが死に、遂に暴発した7月19日の蛤御門の変では、来島又兵衛戦死、久坂玄瑞や入江九一らが自刃、8月3日には将軍家茂が長州藩討伐の進発令を発します。
 そのとき、長州を狙っていたのは米英蘭仏四国連合艦隊で、まさに内憂外患の状況の中に、下関は、元治元年(1864)8月、亀山八幡宮の五穀祭で賑わいの真っ盛りでした。