蚕の里・信濃の夜明け
蚕都・上田市から贈られた「しだれ桑」が「蚕種渡来之地」下関長府で若葉を芽吹かせ輝いています。
甲斐(山梨)を統一した武田信玄を悩ませたのは、甲府盆地の洪水と飢饉でした。信玄が治世のため、真っ先に取り組んだのは、河川の水害対策であり、一方で、穀倉地として実りの多い信濃(長野)を攻略することでした。 下剋上の時代、それは領国支配のために当然の策だったかもしれません。
時代が下って、明治の文明黎明期には、長野の諏訪地方に、おびただしい「糸ひき」の娘たちが飛騨(岐阜)方面から野麦峠を越えて信濃に行きました。
「男軍人、女は工女、糸をひくのも国のため」
生糸で貿易を拡大し、明治政府は、その殖産を推進し蚕糸生産で拡張した軍備で、日清・日露戦に勝利するのです。戦勝に酔いしれた日本でした。
「若き血潮を犠牲にし、真心こめてつむ生糸は、みな貴人や富者の、栄華を飾る為に消ゆ」「工場づとめは監獄づとめ、金のくさりがないばかり」
うがった見方をすれば、生糸に支えられた日露戦を指揮した乃木希典、蚕糸業の近代化に貢献した三吉米熊、ともに「蚕種渡来の地」長府出身の同郷人です。乃木将軍は上田に桑を植樹し、米熊の4女に「登美子」と命名しています。
現在、効率化を求める近代産業の中で、全く蚕糸業は下火となりましたが、信濃(長野県)は、精密機械やIC産業を確立させる傍ら、千曲川と木曽川の豊富な水源・水量による豊かな自然の中で、高級果樹などの栽培が地域産業を支え、農産特産品を生み出しています。
北アルプスの中部山岳国立公園をはじめ、上信越高原・秩父多摩甲斐国立公園などに囲まれた山国には、長い歴史の中に戦火を潜り抜けた文化財が多く、庶民信仰を支えた善光寺や、野辺には道祖神もあります。戦没画学生のメッセージを伝える無言館もあります。蔵を残す町並み、田園風景、さらに伊那路・木曽路・旧中山道や宿場町、温泉は200以上が湧き出ています。懐かしさ、温かさを感じる信州信濃が、魅力的なリゾート観光地として観光客を集めているのです。そこには、島崎藤村の期待と失望の『夜明け前』に通じる、伝統と進取の熱情が渦巻いているようです。
蚕の里・信州から届いた「しだれ桑」の若葉に、活力のある現代の夜明けを期待したいものです。
ハマユウの花
下関市は、昭和48年に「ハマユウ」を、下関の花に選定しています。ちなみに横須賀市、三浦市、沼津市、室戸市なども市の花としています。
その「ハマユウ」は「浜木綿」と書き、「ハマオモト」とも呼ばれます。黒潮の影響する温暖な地域に自生する植物で、7月から8月にかけて開花しますが、天然記念物になっていて、長門市の「仁位の浜」は日本海側自生北限地となっています。
私達は子供のころから彦島の西山海岸に咲く「ハマユウ」に親しんでいましたが、安岡の砂浜にも沢山あったので「関工」の文芸誌や同窓会誌のタイトルにも使用されていました。
角島大橋が開通したことから、観光客が増加し「美しい自然が変ってしまう」と危惧されている角島でも、尾山の灯台周辺は、以前からハマユウの群生地で、ジリジリと照りつける夏の陽射しの海浜に、緑濃い分厚い葉をいっぱいに広げ、可憐で細く白い花を、いかにも涼しげに咲かせている「ハマユウ」と、海の青さ、白い灯台、この見事なコントラストが、美しい自然を演出しています。現在は、周辺を公園化しハマユウなどの植栽で雰囲気や環境を守ろうと懸命のようです。
下関ではほかの海岸線にも多く見られ、とくに吉母の海岸は、ハマユウをふくむ暖地性植物が豊富に群落をなしていて、それらが原始に近い植生を保っていることから昭和44年に下関の文化財に指定されています。
近来、ここも波消しブロック投入、海浜の埋立てなどの漁港整備、海浜レジャーが進んで、環境は著しく変化しています。地元の人は「空カンやゴミを残し、ハマユウを踏んだり、中には持って行く人もいましてねえ」と悩みは大きいようです。こんな状況を見かねて、地元の人は「このままではハマユウが絶滅する」といって、吉母小学校の校庭に育苗園を造り、児童たちと一緒になって、地道な保護活動を30年余り続けておられます。毎年、幼い手で、黒島の北側に移植し続けられ可憐な花を咲かせているのです。
地元にいれば、何処にもあるようなハマユウですが、山口県では絶滅危惧Ⅱ類仁指定して環境保護を訴えています。
柿本人麻呂の「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも」が、万葉集4500首のなかにただ1首、浜木綿を詠んだ歌があるといいます。
吉母の浜、角島灯台のふもと・・・白波を重ね寄せ来る響灘の浜辺、たくましい葉の百重なす浜木綿、潮の香と甘いハマユウの香、人麻呂は「熊野」で恋心をハマユウに託して詠んだのでしょうが、「下関」のハマユウが咲く海岸に、こんなロマンチックな万葉歌碑の一つでもほしいものです。
芳一まつり
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色・・・」
平氏の繁栄と没落を語る『平家物語』は、琵琶法師たちにより語り継がれてきましたが、中でも、源平最後の合戦は珠玉の場面として登場します。
「寿永4年(1185)3月25日、関門海峡の潮の流れは西流に変り、この時を待っていたかのように攻撃を開始した源氏からは、いっせいに水子・梶取を狙って矢を放つなど、こうした奇襲と急潮に、平氏は遂に安徳幼帝とともに壇ノ浦に滅亡しました」
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、下関の阿弥陀寺(現在の赤間神宮)を舞台に、大要次のような『怪談・耳なし芳一』を書いています。
《おどすような低く重々しい侍の声に、連れて行かれた芳一は、琵琶をたくみに弾き、声張りあげて、いたたましい海戦のくだりをうたいました。ほめそやす声、すすり泣き、そしてもの狂わしげな泣声が芳一を囲んでいました。
翌日も。又翌日も。夜毎の外出を不審に思った和尚は、ある日、芳一の胸や背中、四肢、頭、足の裏まで般若心経を書き付けて、座禅したまま口をきかないように申しつけて出かけました。「芳一、芳一よ」何時ものように、荒々しい迎えの声。返事がない。ところが闇の空間に耳が二つ。「わが君に、証しとしてこの耳を届けよう」鉄のような爪で耳はもぎ取られましたが、彼は声を立てなかったのです。・・・寺に帰った和尚は、血に染まった芳一に気づきました。「何と可哀そうなことをした。耳にだけ経を書きもらした私の手抜かりを許してくれ。しかし、もう亡霊に悩まされることはないぞ、傷口を早く治さなければ」・・・》
琵琶法師・芳一の名は、一躍有名になったということです。
赤間神宮には、七盛塚の前に「芳一の木像」(押田正男制作)を安置する「芳一堂」があり、毎年7月15日には、安徳帝を祭る神前で、芳一を供養する「芳一まつり」が行われ、暮れなずむ境内に筑前琵琶の演奏などが奉納されます。