Issay's Essay -244ページ目

しだれ桑と三吉米熊

しだれ桑

 長野県上田市と下関市の親睦交流の証として、平成20年5月7日、上田市の母袋(もたい)市長他10名余の皆さんが来関され、長府の宮の内緑地や忌宮神社境内などに「しだれ桑」を植栽されました。

「桑」(くわ)は「蚕」(かいこ)の食物。蚕のつくる繭(まゆ)から生糸(きいと)をとり絹布が出来ました。

忌宮境内には大きな「蚕種渡来之碑」が建っていて毎年、蚕種祭も行われていますが、蚕都とも呼ばれる上田市は現在でも蚕種(蚕の卵)を海外に輸出している街です。

この親睦の友好交流は、昨年の歴史シンポジュウムにありましたが、きっかけは、長府藩士・三吉慎蔵でした。藩命を受けた慎蔵は京都事情を探るため、坂本龍馬と下関を出帆し、同宿していた慶応2年1月23日に寺田屋事件がありました。慎蔵・龍馬の関係はまたの機会にして、ここでは慎蔵の長男、三吉米熊のご子孫、治敬さんが上田市に現存され、植樹のお世話をされたのです。

 三吉米熊は、万延元年(1860)6月10日、長府に生まれ、幼年期を長府で過した後、父とともに上京。内務省勸農局の駒場農学校(東京大学農学部の前身)に入学。卒業後、長野県に奉職し、やがて県内に流行した蚕病への取り組みが必要だと、自らその道に進みました。

明治22年(1889)には、農商務省からイタリア・フランス両国の蚕業事情調査の一員を委嘱され、渡欧しました。一行は、パリの万博、ミラノやローマなどの博物館・蚕業試験場などを視察後帰国しますが、米熊だけフランスに留まって約2年間の私費留学を行って帰国しました。

帰国後、明治25年5月、国内最初の蚕業学校・小県郡立蚕業学校(現・上田東高校)の初代校長として招かれ、以後36年、校長を勤める傍ら自らも蚕体生理学・蚕体病理学などを講義し実習指導にも当たりました。この間の明治41年(1908)上田蚕糸専門学校(信州大学の繊維学部の前身)の創立委員にたずさわり、同44年に同校講師、教授となりました。

米熊は、中央での栄達の道を自ら拒み、蚕都上田を拠点として日本の蚕糸業の近代化に生涯を捧げたのです。

昭和2年(1927)9月1日、享年68歳でその生涯を閉じました。

同年9月7日には、教育功労者として従三位を追叙されました。

夏宵、光の饗宴

ホタル

音もなく淡い光が過ぎて行きます。またひと筋。暗くなるにつれ、草叢や雑木の茂みに弱い光が見え始め、明滅を繰り返えす光が次第に輝きを増していきます。その無数のホタルの光は、まさに郷愁を誘う夏宵の風物詩です。

成虫になったホタルの命は、僅か10日ほどといいます。そのはかなさがまた、サクラと同様に人々の情を誘うのでしょうか。

 ホタルの幼虫は清流にすむので「ホタルの発生は美しい自然環境の証し」だとされます。近ごろは、下関市内でも「うちの近くにいっぱい見られるよ」と誘われることがあって、安岡の友田川に出かけたことがあります。ヘッドライトの灯りがあっても、確かにホタルが飛んでいると自然が甦えったという実感は感じますが、友田川の場合、グランドやスタンドの照明が強過ぎて、そのときは、風景としてのホタルの写真撮影は断念しました。

山口県内には、山口市の椹野川、長門市の音信川と下関市につながる木屋川のゲンジボタル発生地が、天然記念物に指定(昭和32年)されています。なかでも木屋川水系の指定区域は長く豊田町だけでも35キロとなっています。

豊田町では、古く戦前から「豊浦ボタルの合戦」として有名で、多くの見物客が訪ね、ひいては営業用にホタル乱獲となったこともあります。このために住民は保護のために立ち上がり、天然記念物の仮指定(昭和15年)を受けています。この町では、そのころからホタル愛護精神が目覚め、田圃の農薬使用に気を配り、一方ではホタルの増殖場を造って育成放流を進めて「ホタルの里」顕彰を推進して来たのです。最近になって「ホタル祭り」「ホタル舟」などと、観光振興にも環境保全の成果が活かされつつあります。

 私も、何度か写真を撮りに木屋川上流の豊田に出かけていますが、ホタルが華麗に舞うという「ホタル合戦」を、まだ眼にしていません。

県道34号線沿いにある道の駅「蛍街道西ノ市」の向こうに、豊田ホタルの里ミュージアムが平成16年6月に開館されましたが、外観はゲンジボタルをイメージして造られています。ここは、ゲンジボタルの生態を知ることはもちろん、ホタルと共存できる自然環境の維持保全をアッピールする施設で、季節はずれにもホタルの乱舞に誘われるワンダールームもあります。

「シーズンになると思い出したように来館者が増えますが、ホタルに時期だけでなく、もっと自然に関心を持って頂くと有難いのですがねえ」と館長さんが話されておられたのを思い出します。

海峡の見えるアジサイの丘

アジサイ
 
 夏景色、球状に群がって咲くアジサイを見ると、何ともいえない清涼感を感じます。しとしとと雨の降る日、庭の片隅にシンプルなガクアジサイを見ると、また一層落ち着いた気分にもなります。

アジサイの原産は日本といわれます。ユキノシタ科の落葉低木。花の色が青色から赤紫に変化することから「七変化」という名前もあるそうです。従って花言葉は「移り気」「浮気」「高慢」などと、あまり良いイメージではないようですが「忍耐強い愛」などというのもあります。

オランダ商館の医師として長崎に来ていたシーボルトは、楠本滝さんという日本の妻がいました。「愛するお滝さん」にちなんで「アジサイ」を「オタクサ」と命名し、これを持ち帰ってヨーロッパに広め、今ではヨーロッパで園芸用に品種改良されたアジサイが、西洋アジサイとして逆輸入されています。

暗い梅雨どきに彩を添える花として古寺などで好まれ、京都の三室戸寺、三千院、鎌倉の明月院などはアジサイ寺として観光客を集めています。
 山口県では、俊乘坊重源上人の創建した防府の阿弥陀寺に4000株のアジサイが咲き多くの参詣者を集めます。数で圧巻なのは光市スポーツ公園の15000株。十種ヶ峰の山アジサイや山陽小野田市の江汐公園も有名です。
 下関市にも各所で見る事が出来ますが、彦島弟子待の彦島南公園を紹介しましょう。面積9.70ヘクタール、関門海峡に近く、なだらかな芝生が心地よくて頂上にある展望台では「周防灘から響灘までの眺望が良い」といいたい所ですが、最近は海峡側の樹木が高くなって・・・。公園のふもとを巡る階段や路の側に植栽されたアジサイは、およそ2000株。関門海峡が見え隠れし、潮の香り、汽笛を聞きながらの散策を楽しんで頂けたらと思います。
 シーボルトは、文政9年(1826)の江戸参府途上、下関に10日間滞在して関門海峡の水深などを測定していますが、この海峡を「ファン・デル・カペレン海峡」とも命名しました。アジサイの丘、不思議な因縁を感じます。