お田植祭
下関市一の宮住吉1丁目にある住吉神社は、神功皇后が荒魂御三神を祀られたのが起源となっていて、本殿は国宝、拝殿が重要文化財という、荘厳で由緒ある大社です。長門の国一の宮として平安時代の『延喜式』に記載され、一般に「一の宮」が浸透しています。
神社のある楠乃地域は、綾羅木川をはさんで弥生時代、古墳時代の遺跡や条里の遺構が多く、最近まで田園地帯が広がっていました。
な存在で「心のふるさと」であり、初詣や和布刈神事、お田植祭など季節の節々にお参りされているようです。
なかでも、毎年5月の第3日曜日に行われる「お田植祭」は主要祭典の一つで多くの奉仕者を必要とするため、これには伝統的に地元勝山中学校の生徒さんたちが協力されています。下関市の農業祭でもあり神社の周辺には植木市、農機具店などの店が出て、多くの参拝者で賑わうのです。
お田植祭は、社殿で神事の後、行列をなして新緑鮮やかな広い境内を、社殿裏手にある田植えを行う神田に向かいます。到着すると、先ず宮司と総代長による「神田の検視」があり、宮司の合図でいよいよ行事が始ります。
菅笠と袴をつけた男の子が竹矢来に囲まれた神田に入って牛で田かきを行い、それから主役である田植役の八乙女が、菅笠に赤い襷、緋の袴姿で登場して八乙女舞をおこない神田に踏み入るのです。彼女らは奉耕長の指示に従って、男子から渡される苗を乙女の手で丁寧に植えていきます。
舞台では弓鎮治舞など、竹矢来の外では田植え舞が続けられます。この行事に関る男女は約40名ばかりで、全てが勝山中学校生徒さんの奉仕で、最近では、農業と関係のないサラリーマン家庭のお子さんがほとんどだといわれます。中には塾通いに忙しい子供さんもあるでしょうが、祭りの前、2週間くらいは、歌や舞、行事の流れの練習に皆んな一生懸命です。
米がパンに変った食卓、現代っ子には農耕儀礼なんて無頓着であっても、お田植祭の本番の日、早苗を捧げ持ち、宮司に傘をさしかけ、裸足で泥田の感触を味わい、袴をつけて瑞穂の舞を踊り、日本文化の伝承に関ったひと時の経験をした生徒さんはもちろん、新緑の会場に身を埋めた観客は、食の安全、コメの自給率、減反政策などと、矛盾した厳しい日本のコメ作りの環境を、どのように感じるのでしょうか。
平家一門の霊気漂う七盛塚
森鴎外の『小倉日記』明治34年9月24日の項を見ると、馬関病院の帰途安徳帝陵を拝した後、平氏諸公(七盛塚)の墓碑を看て板碑の大きさや文字まで丹念に書き写した記述があります。さすがに鴎外の「歴史への感心の深さ観察の細やかさ」を感じることが出来ます。
この七盛塚は、初夏を彩る関門海峡最大の絢爛豪華な祭典で知られる「先帝祭」が行われる下関市阿弥陀寺町の赤間神宮境内にあります。艶やかな賑わいを見せる拝殿から、左に宝物殿を横目に進むと芳一堂があって、その奥に、幽邃の世界を想わせる静寂な一角に「平家一門の墓」があります。
ここが平家伝説を秘め、平家一門の霊を鎮める墓標のならぶ七盛塚です。
天明年間(1781-89)のこと、関門海峡は嵐が続いて、九州への往来船や漁船の遭難が相次いで、商人も猟師たちも困り果てていました。
ある夜、漁師たちが荒れ狂う暗い海に、泣き叫ぶ男女の声を聞ききつけたのです。闇を透かしてみると、そこには“成仏出来ずにいる沢山の平家武者や官女たちの亡霊が彷徨っている”のを見ました。「この災難は平家一族怨念のたたり」だと気付いた漁師たちは、それまで見向きもせずに荒れ放題になっていた「紅石山の平家の墓」を、阿弥陀寺の一ヶ所にまとめて、手厚く供養したところ、翌日から嵐は嘘のように静まったといいます。
墓標には、前列右から(平)有盛、清経、資盛、教経、経盛、知盛、教盛。後列は徳門、忠光、景継、景俊、盛継、忠房、二位の文字が刻まれ、盛のつくのは6基しかありませんが「七盛塚」と呼ばれているのです。
そこは今でも、うしろに累積する五輪塔とともに平家一門痛恨の執念を感じる怪しい雰囲気が漂っています。
滝口康彦さんの文学碑
下関の作家・古川薫さんと、福岡の白石一郎さん(故人)、佐賀の滝口康彦さん(故人)の3人は、深い親交があって「九州の時代小説3人衆」とか「西国3人衆」と呼ばれていました。
他の2人が受賞した直木賞を、滝口さんは6回も候補にノミネートされながら遂に受賞することなく、平成16年(2004)に他界されましたが、生涯のほとんどを多久市で過され、数多くの作品を発表されたことから、昨19年(2007)12月、古川さんの肝いりで、同市の西渓公園内に文学碑が建立されました。
滝口さんの作品は、旧藩時代の九州各地を舞台にした武家社会の掟に縛られる下級武士の悲劇「『士道』の峻烈さ、酷薄さ、無惨さ」を描き出した作品が多く、映画に『切腹』(小林正樹監督、仲代達矢主演、松竹・1962)や『上意打ち』(同監督、三船敏郎主演、松竹・1967)の傑作があります。
先日、私は、この文学碑を見たくって多久市を訪ねました。
文学碑のはるか向こうに、その日、雪を被った天山が見えていました。
ご案内を頂いた川内丸公民館長は「滝口さんは、サクラの花びらを身体に受けながら、向こうにあった図書館まで此処をとぼとぼと歩かれたんです」と、実感のこもった話っぷり、また「除幕式のときは、ここで石を叩きながら『滝口よ!よかったなあ』と何度も言れてましたよ」などと、古川さんの様子を話されました。私は、陶板の字を見ながら“穏やかな人柄、一字一言に厳しかった滝口さんの面影”を思い浮かべていました。