僧・俊寛の悲惨
朝廷の外交権を代行するほどの平清盛による、日宋貿易推進で経済問題の物議が取りざたされていたころ、平氏打倒の陰謀が俊寛の鹿ケ谷山荘で密かに計画されたことが源行綱の密告で、治承元年(1177)6月1日に発覚しました。
これがもとで、斬首、殺害されたもののほか、平成経、平康頼、僧・俊寛の3人は、鬼界が島と呼ばれる薩摩の国・硫黄島に配流されました。
私の学生時代(下関工高・男子校で演劇部の演目も制限されていました)のある年に出演者全てが男性という、倉田百三の戯曲『俊寛』が公演されて、その舞台(主演がT君)の印象を今でも鮮烈に思い出します。
2人の葛藤と俊寛の願望は続きますが、遂に2人は迎えの船で帰っていきます。1人残された俊寛は、岩に寄り添い「鬼、畜生だ!お前らは、~わしは勇士として一人残るぞ~助けてくれ~此島の鬼となるぞ~」と叫び続けて幕となります』
先帝祭のころになると、平家の栄華の陰にある限りない悲劇悲惨さを伝えた、あの「俊寛」の舞台を、半世紀の過ぎた今でもふと思い出しています。
西楽寺の阿弥陀様
下関市彦島本村町のバス停「本村」から徒歩2~3分のところに、西楽寺というお寺があります。石段の登り口に「平重盛守護仏彦島開闢(かいびゃく)尊像安置」と刻まれた小さな石柱が建っています。
「正覚山・西楽寺(さいらくじ)」下関では珍しい時宗のお寺で、ご本尊は阿弥陀如来です。本州西のはての島に、似つかわしくないほど立派で気高く美しい仏像です。ちなみに下関の指定文化財になっていて、高さ83.5cm.ヒノキ材寄木造りの像は、上品上生の印を結び蓮台上に結跏趺坐されています。
伝えによれば、白鳳期に天武天皇の命で造られ、東大寺に安置されていたものを、平重盛が熊野権現のお告げで貰いうけ「平家一門の守り本尊」にしたというものを、源平壇之浦の合戦後、文治2年(1186)植田治部之進兼晴、百合野民部高昌、岡野将監重利ら落人が密かに運び込み草庵を結んで守り続け、その後90年の建治2年(1276)、今度は一遍上人の高弟・西楽法師が彦島を訪れたときに平家守護仏という阿弥陀様の威光にうたれて島に留まり、一生をこの仏様に仕えることにしたといいます。そのとき西楽庵に尊像を移してお祀りし、何時のころか西楽寺と改名されたといわれます。
梅処尼(おうのさん)100回忌
先日、どこかの貸金業者が吉田松陰や高杉晋作ら長州藩士の名前を、出願され商標登録が認められたという無茶な話が報道されました。お酒やお菓子には、この種のネーミングも不思議ではありませんが、これが「名声を利用した利益取得」となれば、登録そのものに疑問を感じます。
ところで今年は明治維新140年に当たります。
高杉晋作が維新の夜明けを見ることもなく、慶応3年(1867)4月14日に没して141年です。そのとき愛人の「おうのさん」は24歳、晋作との出会いは、早くても晋作が馬関にやってきた文久3年(1863)ですから、共にした歳月は4年くらいの逢瀬でした。
史跡・東行墓の一段下の広場に伊藤博文の撰文「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し・・」に始る晋作の顕彰碑が建っていますが、梅処尼はこの碑がなかなか出来てこないのを心配して「旦那の碑がこない・・」と待ちわびながら、その建立目前の明治42年(1909)8月7日に遷化されました。晋作が病死して実に42年間、お墓に、寄り添い菩提を弔ってきたのです。
梅処尼のお墓は晋作墓の斜め前にありますが、今年は谷梅処尼100回忌にあたります。
不思議なことに、2代目庵主の谷梅仙尼が50回忌。3代目の谷玉仙尼は遷化されて20周年の節目の年にあたります。