Issay's Essay -245ページ目

高杉晋作の奇兵隊結成

白石邸

高杉晋作が訴えた「日本の危機」は、ほとんど無視され狂挙に走った後、10年の暇をとって萩に帰って雅子婦人と静養していました。

この間に将軍は、「文久3年(1863)5月10日を攘夷実行の日」と天皇に奉答しました。長州藩は、これを「攘夷決行の日」として、たまたま関門海峡に近付いた米艦ベンプローク号を攻撃、これが商艦だったため急いで退却、長州兵は「勝った!」と大喜び、景気のいい話は3次までで、6月1日と5日には、アメリカ、フランス軍艦がそれぞれやって来て、長州軍の軍艦は大破、轟沈、死傷者も100人を越え、前田砲台の破壊さらに前田村を焼き払って引き揚げるという始末。5次にわたる外国船打ち払いの攻防は惨敗となります。

晋作が、上海で欧米各国の近代的な戦力を見て、攘夷のおろかさを皆に訴えたことが現実になったのです。

そのとき、毛利敬親は暇を取っている高杉晋作を呼び出して対策を命じました。晋作は「士分、百姓、町人を問わず募集して、奇兵隊を創設し武器を持たせます。藩兵は正規兵、互いに協力して藩難に絶ち向きたい」と言上します。

藩主の御墨付きを貰った晋作が、初めて下関にやって来たのは6月6日、数25歳のことでした。

早速6月8日から晋作は、回船問屋の白石正一郎邸で「奇兵隊結成」に取り掛かりました。武士はもちろん、町民、農民など身分をとわず、国難に身を投じようとするものは全て入隊が許され、瞬く間に60名を超え、その勢いはたちまち300人を超す大世帯になり、屯所も阿弥陀寺(現・赤間神宮)、極楽寺と海峡に面したお寺などに移しました。

晋作の掲げた「檄」に呼応はしても、武器の使い方はまるで知らないものばかり、こうして民兵組織は藩内にも次々と生まれ、これらは諸隊といいますが町なかは武装した若者であふれるようになったのです。大砲を築きなおし、それぞれ厳格な隊規を造り、戦いの訓練、学問も教えました。これが良くも悪しくも近代的な軍事組織の原形といわれます。

下関市竹崎町の中国電力下関営業所(旧白石正一郎邸跡)には、昭和47年に、当時の中国電力社長・山根寛作氏の題字による「奇兵隊結成地の碑」が、下関郷土会により建てられています。

『論語』の匙加減

論語

 最近の、テレビ国会中継が「時として苛めのドラマ」を見るようで、不愉快に感じるのは私だけでしょうか。皮肉も野次も少しは結構ですが、憎しみをあらわにした言行、誹謗、中傷、あら捜し、揚げ足取り・・・いくら平等の社会とはいえ、遜譲の態度などは毛頭も感じません。日本を代表する紳士淑女の国会議員、おのずと品格と秩序の良さ、整然、厳粛な中の熱気であってほしいものです。
 下関商業高校の甲子園出場を応援する新聞広告に、同校の皆さんが目標とする心を表しているという、独特のクラス名が説明されていました。
 仁(人を思いやる心)、義(人として常に正しい道を守る心)、礼(他人を尊重する心)、智(豊かな知恵により、正しい判断をする心)、信(言行が一致し、人をあざむかない心)、和(もの静かで温かい心)、浄(けがれのない美しい心)
 これは、孔子の道徳観念に基づく考え方『論語』によるものです。最近、この『論語』が巷で見直されていますが、「論語」の言葉には、何時の時代にも人の世に福寿をもたらしてくれるような「心に響く名言」があると思います。今日、日本人の心の荒廃が「教育」にあるといいますが、そこに『論語の一言』サジ加減が加われば、軋んだ社会も、いくらか活性化、正常化するのではないかと思うこのごろです。
 孔子は、「仁」を理想の道徳として、そのために孝悌(父母に孝行、兄弟に従順)と忠恕(真心と思いやり、忠実で同情心の厚いこと)を以って、理想を達成することを基本としていたようです。
 私は『論語』を読んだこともありませんが「朋遠方より来る、また楽しからずや」とか「後生畏るべし」「温故知新」「和して同ぜず」などは、何処かで聞いたことがあり、麻生路郎の川柳「古くとも僕には仁義礼智信」などをみると、何となく納得するのです。
 幼いころ読んだ『次郎物語』の作者・下村湖人に『論語物語』という著書があります。「人間平凡が良い。しかし平凡な道を非凡に歩く」というのが『論語物語』の教えであり『次郎物語』の真意になっているというのです。

高杉晋作の狂挙

高義亭

高杉晋作が、親のすすめるままにマサ(雅子)と結婚したのは、万延元年(1860)1月、彼が20歳のときでした。しかし3月には藩の命令を受けて藩の軍艦・丙辰丸に乗り江戸に向かいました。

ところが、江戸に着くなり勝手に船から降りて東北、北陸への遊歴を藩に願い出て約50日間、各地で剣術の試合、学者(加藤有隣・佐久間象山・横井小楠)らと対面して、時世の意見に耳を傾けて萩に帰る「試撃行」という旅をします。写真は、「試撃行」の途中に立ち寄った佐久間象山の高義亭(長野市松代)応接間ですが、晋作の写真が掲げてありました。

文久2年(1862)6月には、江戸番手として度目の東上となります。

そのころ長井雅樂の「航海遠略策」が藩論となっていて、久坂玄瑞らは猛反対、晋作はその暗殺さえ企てていた矢先、清国上海に行く幕府の使節船に、長州藩の代表として藩命により乗船することとなりました。

100日近い長崎滞在後、上海に向かい約2ヶ月を上海で過します。この渡航での見聞が、晋作の志士としての目覚めとなったのです。

帰国後、長崎に着くなり、早速、オランダの蒸気船を購入しようとしますが、藩からはこれを一蹴されます。その後、藩主のいた京都に立ち寄り「日本の危機」を訴え続けますが、藩の重臣たちは冷ややかで江戸に着いても同僚の志士たちでさえ実感として、国土の危機には無関心で、だんだん晋作はいらだってしまうのです。

孤独に耐え切れなくなった晋作は、文久2年(1862)8月、笠間の加藤有隣に会うため江戸を抜けます。「西海一狂生」という名前で、父への手紙を残していますが、まさに晋作「狂」の始まりはまず「亡命」でした。

この脱藩は、桂小五郎の計らいで罪を免れますが、今度は12月、久坂玄瑞らと企てた「異人襲撃」で未遂に終ります。次いで同士13人は品川の御殿山に新築なったばかりの「英国公使館の建物を焼き討ち」します。文久3年(1863)1月には、小塚原から武蔵若林村(現・世田谷の松陰神社)に吉田松陰の「遺骨を改葬」しますが、このとき上野の川に架けられた三筋の橋(三枚橋)の中央、御成橋(将軍が上野の東照宮参詣のときにのみ利用する)を幕吏の静止を無視して渡っています。さらに京都に移って将軍・家茂の行列に「征夷大将軍!」と「野次」を飛ばしました。

まさに「狂挙」の連続でしたが、3月15日、藩に「10年間の暇」を願い出て許され、名を「東行」と改め頭を丸めて、京都を離れ郷里の萩に戻ります。

それまでとは別人のようにおとなしくなっていました。