高杉晋作の奇兵隊結成 | Issay's Essay

高杉晋作の奇兵隊結成

白石邸

高杉晋作が訴えた「日本の危機」は、ほとんど無視され狂挙に走った後、10年の暇をとって萩に帰って雅子婦人と静養していました。

この間に将軍は、「文久3年(1863)5月10日を攘夷実行の日」と天皇に奉答しました。長州藩は、これを「攘夷決行の日」として、たまたま関門海峡に近付いた米艦ベンプローク号を攻撃、これが商艦だったため急いで退却、長州兵は「勝った!」と大喜び、景気のいい話は3次までで、6月1日と5日には、アメリカ、フランス軍艦がそれぞれやって来て、長州軍の軍艦は大破、轟沈、死傷者も100人を越え、前田砲台の破壊さらに前田村を焼き払って引き揚げるという始末。5次にわたる外国船打ち払いの攻防は惨敗となります。

晋作が、上海で欧米各国の近代的な戦力を見て、攘夷のおろかさを皆に訴えたことが現実になったのです。

そのとき、毛利敬親は暇を取っている高杉晋作を呼び出して対策を命じました。晋作は「士分、百姓、町人を問わず募集して、奇兵隊を創設し武器を持たせます。藩兵は正規兵、互いに協力して藩難に絶ち向きたい」と言上します。

藩主の御墨付きを貰った晋作が、初めて下関にやって来たのは6月6日、数25歳のことでした。

早速6月8日から晋作は、回船問屋の白石正一郎邸で「奇兵隊結成」に取り掛かりました。武士はもちろん、町民、農民など身分をとわず、国難に身を投じようとするものは全て入隊が許され、瞬く間に60名を超え、その勢いはたちまち300人を超す大世帯になり、屯所も阿弥陀寺(現・赤間神宮)、極楽寺と海峡に面したお寺などに移しました。

晋作の掲げた「檄」に呼応はしても、武器の使い方はまるで知らないものばかり、こうして民兵組織は藩内にも次々と生まれ、これらは諸隊といいますが町なかは武装した若者であふれるようになったのです。大砲を築きなおし、それぞれ厳格な隊規を造り、戦いの訓練、学問も教えました。これが良くも悪しくも近代的な軍事組織の原形といわれます。

下関市竹崎町の中国電力下関営業所(旧白石正一郎邸跡)には、昭和47年に、当時の中国電力社長・山根寛作氏の題字による「奇兵隊結成地の碑」が、下関郷土会により建てられています。