高杉晋作の狂挙 | Issay's Essay

高杉晋作の狂挙

高義亭

高杉晋作が、親のすすめるままにマサ(雅子)と結婚したのは、万延元年(1860)1月、彼が20歳のときでした。しかし3月には藩の命令を受けて藩の軍艦・丙辰丸に乗り江戸に向かいました。

ところが、江戸に着くなり勝手に船から降りて東北、北陸への遊歴を藩に願い出て約50日間、各地で剣術の試合、学者(加藤有隣・佐久間象山・横井小楠)らと対面して、時世の意見に耳を傾けて萩に帰る「試撃行」という旅をします。写真は、「試撃行」の途中に立ち寄った佐久間象山の高義亭(長野市松代)応接間ですが、晋作の写真が掲げてありました。

文久2年(1862)6月には、江戸番手として度目の東上となります。

そのころ長井雅樂の「航海遠略策」が藩論となっていて、久坂玄瑞らは猛反対、晋作はその暗殺さえ企てていた矢先、清国上海に行く幕府の使節船に、長州藩の代表として藩命により乗船することとなりました。

100日近い長崎滞在後、上海に向かい約2ヶ月を上海で過します。この渡航での見聞が、晋作の志士としての目覚めとなったのです。

帰国後、長崎に着くなり、早速、オランダの蒸気船を購入しようとしますが、藩からはこれを一蹴されます。その後、藩主のいた京都に立ち寄り「日本の危機」を訴え続けますが、藩の重臣たちは冷ややかで江戸に着いても同僚の志士たちでさえ実感として、国土の危機には無関心で、だんだん晋作はいらだってしまうのです。

孤独に耐え切れなくなった晋作は、文久2年(1862)8月、笠間の加藤有隣に会うため江戸を抜けます。「西海一狂生」という名前で、父への手紙を残していますが、まさに晋作「狂」の始まりはまず「亡命」でした。

この脱藩は、桂小五郎の計らいで罪を免れますが、今度は12月、久坂玄瑞らと企てた「異人襲撃」で未遂に終ります。次いで同士13人は品川の御殿山に新築なったばかりの「英国公使館の建物を焼き討ち」します。文久3年(1863)1月には、小塚原から武蔵若林村(現・世田谷の松陰神社)に吉田松陰の「遺骨を改葬」しますが、このとき上野の川に架けられた三筋の橋(三枚橋)の中央、御成橋(将軍が上野の東照宮参詣のときにのみ利用する)を幕吏の静止を無視して渡っています。さらに京都に移って将軍・家茂の行列に「征夷大将軍!」と「野次」を飛ばしました。

まさに「狂挙」の連続でしたが、3月15日、藩に「10年間の暇」を願い出て許され、名を「東行」と改め頭を丸めて、京都を離れ郷里の萩に戻ります。

それまでとは別人のようにおとなしくなっていました。