Issay's Essay -248ページ目

下関出身の藤本英雄



 3月22日から開かれる第80回記念の選抜高校野球大会に今年は山口県から古豪の下関商業高校、21世紀枠で華陵高校が選ばれました。Sマークで知られる下商はなんと29年ぶりの選抜出場で「29(ふく)」とはまた縁起が良いともっぱらの喜びです。卒業生はもちろん地元の期待も大きいところです。

ところで、野球といえば、下関出身の野球選手に、池永正明、宮本和知、平山菊二らがありますが、中でも特筆されるのが藤本英雄でしょう。

江浦小学校から下関商業、明治大学と野球選手として活躍した藤本英雄、後の中上英雄が、日本プロ野球史上初めての完全試合(パーフェクトゲーム)を達成したのは、昭和25年(1950)6月28日の巨人軍時代で、対西日本パイレーツ(現西武ライオンズ)戦の青森球場でした。完全試合は、その後金田・外木場ら現在まで8回しかない偉業です。彼はノーヒットノーランを5回も記録しているそうですが、その一つは下商時代だそうです。

昭和51年(1976)にプロ野球殿堂入りを果たしています。

大正7年に釜山で生れていますが3歳のとき下関彦島に転居して、野球人生を歩き、平成9年(1997)78歳でなくなりました。

青森球場には「完全試合達成碑」が平成7年に建てられたそうですが、藤本英雄顕彰の証しが、出身地・下関に何にも無いのは寂しいことです。

写真は、江の浦小学校時代の藤本の投球ホームです。(文中敬称略)

林芙美子の生誕地


林芙美子生誕地

(尾道「文学のこみち」の続き)
  尾道の文学室では、人材センターのかたが丁寧なお話をされましたが「芙美子は下関で生まれたと言われますが、実は門司で生まれたことが分りましてね、そこには誕生の碑も建っています・・」こんな話になった頃、黙って聴いていた私も我慢ならなくなって「冗談じゃあ、ありませんよ、門司生誕の話も伝聞によるものじゃ有りませんか、証拠のない話ですよ」と少々語気を荒げたものですから「どちらから来られたんですか?」「先ほど受け付けには名刺を出させて頂きましたが、下関ですよ」「・・・!」
尾道には、駅前近くに芙美子の像があり、出身校・尾道市立高等女学校(現尾道東高)に文学碑があります。

ところで、このほど出た『広辞苑第6版』で「林芙美子」を引くと「下関生まれ」となっていますが、門司生誕説というのは、母親が芙美子の幼友達だったという門司の井上貞邦さん(故人)によるもので、芙美子の実父・宮田麻太郎に聞いた話をその母親が・・となっています。 下関生誕説は、麻太郎と分かれた母親が、流転の途中に直接、芙美子に言い聞かせていた話で、母親が間違って話すこともないはずでしょう。それに芙美子自身が、作品『放浪記』あるいは『一人の生涯』で「私は下関に生まれた」と書いているのです。

いずれにしてもブリキ屋の二階で生れたというのが共通していますが、もちろん下関には早くから護国神社に生誕地碑、亀山八幡宮に文学碑、名池小学校の校門側にも文学碑が建っています。

郷台地じゅうりん事件

綾羅木郷台地

 JR山陰本線に梶栗郷台地(かじくり ごうだいち 平成20年3月15日開業)という駅が出来つつあります。

郷台地というのは、近くにある史跡・綾羅木郷遺跡に因んだものですが、昭和44年(1969)3月8日、土曜日の夜の出来事は、下関市民、あるいは全国の埋蔵文化財保存に関る人たちにとって絶対に忘れられない事件でした。

春宵の闇を揺るがす11台のブルドーザーが、発掘調査中の遺跡の地表を無惨に削りながら走り回ったのです。これに気付いた関係者は、ブルの前に立ちふさがったものの、その蛮行は唸りをあげるばかりで未調査地区におよび、若宮古墳周辺近くまで剥ぎ取るように蹂躙(じゅうりん)したものでした。

悪夢の数時間でした。

当時、西日本最大の弥生時代遺跡として知られていた郷台地は、早速、文化庁異例の持ち回り審議で3月11日には「史跡・綾羅木郷遺跡」として指定されたのです。道路、宅地、産業開発などの高度経済成長期にあって、遺跡保護が論議の的になった郷遺跡は「文化財保護法」誕生の原点となりました。

それ以降、運動公園建設で見つかった青森の三内丸山遺跡、工業団地建設で発見された佐賀の吉野ヶ里遺跡、鹿児島の上野原遺跡などの貴重な遺跡保存が出来たのは、遺跡保護のためにブルドーザーに立ち向かった勇気ある有志たちがきっかけだったかも知れません。

3月が巡り来る度にこんなことを思い、考古博物館に出かけるのです。