僧・俊寛の悲惨 | Issay's Essay

僧・俊寛の悲惨



 朝廷の外交権を代行するほどの平清盛による、日宋貿易推進で経済問題の物議が取りざたされていたころ、平氏打倒の陰謀が俊寛の鹿ケ谷山荘で密かに計画されたことが源行綱の密告で、治承元年(1177)6月1日に発覚しました。

これがもとで、斬首、殺害されたもののほか、平成経、平康頼、僧・俊寛の3人は、鬼界が島と呼ばれる薩摩の国・硫黄島に配流されました。

私の学生時代(下関工高・男子校で演劇部の演目も制限されていました)のある年に出演者全てが男性という、倉田百三の戯曲『俊寛』が公演されて、その舞台(主演がT君)の印象を今でも鮮烈に思い出します。

 『流された当初、打ちひしがれた俊寛に対して、2人の武者が希望と勇気、励ましの声をかけ神に友情を誓うのです(普通は立場が逆のはずですが)。やがて2年が過ぎ、清盛の使者・基康が赦免状を持って来ます。読み上げた赦文には俊寛の名前が無く、俊寛と2人は使者に頼み込みますが3人を連れ帰すことにはなりません。「役目はこの赦文どおりの行使」とそっけないのです。(役人の態度は今も変りません、“聞く耳を持たない”あの道交違反取締員に見かける雰囲気)

2人の葛藤と俊寛の願望は続きますが、遂に2人は迎えの船で帰っていきます。1人残された俊寛は、岩に寄り添い「鬼、畜生だ!お前らは、~わしは勇士として一人残るぞ~助けてくれ~此島の鬼となるぞ~」と叫び続けて幕となります』

先帝祭のころになると、平家の栄華の陰にある限りない悲劇悲惨さを伝えた、あの「俊寛」の舞台を、半世紀の過ぎた今でもふと思い出しています。

なにが本当なのか、光市室積の普賢寺には、流される途中に逃げて出家、名を性照と改めたという平判官康頼の碑か建っています。