教法寺事件 | Issay's Essay

教法寺事件



 馬関(下関)防衛の使命を受けた高杉晋作は、画期的な奇兵隊を創り、当面、前田・壇之浦の両砲台再建を、住民の協力も得て1ヶ月ほどで成し遂げ7月6日には早くも試し打ちも行っています。このとき萩本藩の藩士による先鋒隊は壇之浦砲台、奇兵隊は前田台場を分担警備していました。
 ところが、町人の参加する奇兵隊を“烏合の衆”と軽蔑する先鋒隊に対して、惨めな攘夷戦を見ていた奇兵隊の連中は“腰抜け侍”とののしって両隊の間には、互いに感情的な対抗意識が生じていたのです。
 こうしたときに、萩本藩の世子・定広(後の藩主・元徳)が、下関の砲台視察にやって来て、奇兵隊の訓練を先にみて日没となり、先鋒隊の訓練を見る時間が無くなってしまったのです。
 折角の名誉な機会を失ったのは、奇兵隊に好意を持ち、自らも奇兵隊に入隊している、赤間関総奉行使番・宮城彦輔の画策に違いないと、世子の振舞酒の勢いをかって「宮城の宿舎を襲う」との話題が持ち上がっていました。先鋒隊の中にも、宮城に通じている者もいて、このことが宮城のもとに知らされると、宮城は高杉晋作の宿舎に相談に訪れます。
 これが、そもそものきっかけで大事件となったのです。
 文久3年(1863)8月16日、晋作が先鋒隊の屯営になっている教法寺にむかい談判の途中に、赤根武人に知らされた奇兵隊士らが押しかけ、談判はエスカレートし、屯所の暗闇からは先鋒隊士の「斬ってしまえ」と言う声が聞え、小銃の発射もありました。これに激昂した奇兵隊士は寺内に乱入し、先鋒隊士はいち早く逃走したものの、病気で伏せていた先鋒隊士の蔵田幾之進を死亡させました。
 藩では、この事件に対して宮城彦輔に切腹を命じ、奇兵隊は小郡に転居、先鋒隊は下関から引き上げ、同時に高杉晋作は奇兵隊総督を9月12日付けで、その地位を免ぜられました。後任は河上弥一と滝弥太郎の両名となりました。
 宮城の辞世「とにかくに死におくれぬぞ武士(もののふ)の 誠をつくす道にはありける」を遺し奇しくも51歳の誕生日、介錯は河上弥一でした。
 喧嘩両成敗でもなく、喧嘩を仕掛けられた側の宮城が一方的な犠牲になり、生死を共にした河上が介錯、しかも宿敵、先鋒隊の屯所での執行だけに河上の胸中には、藩に処置に対する「不条理と無念さ」が渦巻いていました。
 宮城切腹の儀が8月27日に行われたことで、表面上は一応終止符を打ちましたが、その火種は、正義派と俗論派の藩内対立に益々勢いを増すことになって行きます。晋作もまた、奇兵隊結成から僅か3ヶ月での罷免「自ら大失策」と悔やんだ事件でした。
 教法寺は、下関赤間町にある浄土真宗のお寺で、戦災により焼失しましたが再建されています。