彦島租借の回避 | Issay's Essay

彦島租借の回避

32彦島租借の回避

写真:北九州市風師山から、関門海峡を隔てての下関市彦島の眺望

 文久3年(1863)5月に、攘夷決行だと息巻いた長州軍は、アメリカ、フランスの軍艦に一泡吹かせたものの6月には軍艦が通りかかって長州軍は惨敗しました。そのとき、命を受けた高杉晋作が、下関で奇兵隊を結成しました。その後、教法寺事件が起こり晋作は奇兵隊総督を罷免、年が変わって亡命、投獄、謹慎などと下関から離れていました。
 そして約1年、元治元年(1864)8月5日、関門海峡で攘夷戦として攻撃された、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4カ国は、その報復のため連合艦隊17隻で関門海峡に現れたのです。
 それは、長州兵が京都に乱入し、御所に長州の弾丸が飛び込み「朝敵」の烙印を押された「禁門の変」から間もなくのことでした。長州ファイブとしてロンドンに着いた伊藤俊輔(博文)と井上聞多は、現地で下関襲撃の情報を知り、その復讐を止めさせようと急きょ帰国しましたが、すでに時間切れでした。
 四ヵ国連合艦隊に、奇兵隊なども奮戦したが叶う相手でもなく、報復戦はほぼ3日間で大勢は決まりました。伊藤らは降伏と講和の段取りを進めて休戦となりました。当時の瓦版に「長門の国大火」と題して、前田から彦島にいたる下関の海岸線が火の海となった、連合艦隊襲撃を報じるものがあります。また、前田砲台を占領したイギリス軍や、前田海岸に乗り付けた舟艇に戦利品を積み込む写真などが残っています。
 高杉晋作は脱藩者であり160石の録も没収されている身分ながら、この事態に講和の全権をゆだねる人物は外にない、と、また白羽の矢が立ちます。
 藩は「家老・宍戸刑馬」と名乗らせました。萌黄色の大紋を着せ、断髪の上に烏帽子、礼装を調えた晋作は、8月8日、イギリス艦ユーリアラス号の甲板に2人の共を従えて現れました。
 イギリスの持っていた「武鑑」の中に「宍戸刑馬」という名前の無いことがまず問題となり、これは上手くきり交わしました。交渉は第3回目の8月14日、藩はすでに「海峡の自由通行」「下関港で石炭・コメなどの必要な物資売却」など連合軍の示した5つの条件のうち4件を承諾、賠償金300万ドルは払えぬとして、高杉にまかせました。
 相手はクーパー提督。賠償金は激論となりましたが「攘夷は長州藩独自の考えではなく幕府の命令だ、賠償金は幕府に請求されたい」と方向転換。・・・さらにクーパー提督が持ち出した難問は「下関の突端にある彦島の租借」でした。これは、連合軍の要求ではなくイギリスの野望だと、晋作は見ぬいていました。晋作は「それは絶対にお断りだ」と声を大きく言い返しました。
 交渉の相手が悪かったのです。すでにアヘン戦争後の悲惨な状況を上海渡航で見聞していたことで、志士としての活動を開始した高杉晋作だったのです。14日、講和条約は締結しました。
 講和使節・宍戸刑馬いや高杉晋作の毅然とした拒絶は、長州の危機を救い、ひいては彦島の租借、日本の植民地化の危機を避けた交渉でありました。