「悲母観音図」の里帰り | Issay's Essay

「悲母観音図」の里帰り

35「悲母観音図」の里帰り

 現在は2番からしか歌われていないという、高野辰之作詞の豊浦高校校歌、1番は「乃木将軍の生まれしところ、狩野芳崖生まれしところ、剣に筆に偉人をいだす、霊気こもる地これ我が豊浦(学舎)」というものです。
 乃木さんと芳崖は、やはり郷土の誇る偉人で、先日も乃木さんについては古川薫氏の小説『斜陽に立つ』が出版されましたが、狩野芳崖については、今年が生誕180年、没後120年とあって、その生誕の地(下関)と逝去した地(東京)、芳崖にとっては最もゆかりのある場所で、偉業を回顧する展覧会が開催されています。
 それは、『狩野芳崖 悲母観音への軌跡ー東京藝術大学所蔵品を中心にー』と題して、東京は芸術大学美術館で8月26日から9月23日まで、下関では下関市立美術館で10月4日から11月5日までの開催となっています。もちろん重要文化財の「悲母観音」が中心に構成されているものです。
 これまで、山口県立美術館の開館記念特別展として生誕150年に当る昭和54年。また平成元年(1989)には下関市立美術館で前年の没後100年を記念した展覧会が開催されました。県立美術館のときには「悲母観音」が来ていたと記憶しますが、20年前の下関のときは、「悲母観音下図」あるいは「観音下図画稿」などが芸術大学から来ていました。もちろんこれらも重要文化財で感銘深いものでしたが、今回は、正真正銘「悲母観音図」が、生誕地の下関長府に120年ぶりの里帰りとなるのです。
 私は、山口県美での記憶がほとんどありません。下関の場合は「観音下図」とはいえ結構大きかった印象があります。その緻密な線描に感心しましたが、今度はその絹本彩色です。やはり目を見張るものがあると今から期待しています。
 芳崖は、明治15年に生れた初孫(新治)をスケッチしたものが、後に「悲母観音の嬰児」のモデルになったと聞いたことがあります。さらに、岡倉天心やフェノロサとともに同19年(1886)の関西古美術調査旅行は、多くの観音像に接して、精神的にもその創作背景に影響したかと思われます。
 私が「悲母観音図」に惚れ込んでいるのは、図録や全集での印象ですが、観音さまや嬰児の表情はともかく、それらが宙に浮いている神秘的な表現、その下方に見える岩陰にあります。晩年の西洋絵画的な表現による「岩石図」や「懸崖飛沫図」に見られる抽象世界と、東洋的な日本画の世界が調和して、見事な幻想空間をかもし出しているところにあります。
 芳崖は、この「悲母観音図」の制作に没頭しました、そしてこれが絶筆となって明治21年(1888)11月5日、数ぇ61歳で鬼籍の人となりました。
 法名、東光院臥龍芳崖居士。東京谷中の長安寺にお墓があります。
 余談ですが「狩野芳崖」を広辞苑でみますと『日本画家。長門長府の人。木挽町狩野に学び、後フェノロサに知られ、明治期日本画の革新に貢献。作「悲母観音」「不動明王」など。(1828-1888)』とありました。「狩野」は「かのう」の欄にあります。先日、下関市立美術館の井土誠館長がある会合で、皆さんは「かのう」「かの」どちらで呼ばれていますか?と聞かれましたが、そのとき元下関図書館長の清永唯夫さんが「僕は、狩野派の時はカノウで狩野芳崖はカノです」と言っておられました。