狩野芳崖の生涯
ここでは、近代日本画の父といわれ、明治画壇の代表的な画家と呼ばれる画聖・狩野芳崖の生涯について書いておきましょう。
文政11年(1828)1月13日、長府藩の御用絵師・狩野晴皐(せいこう)の長男(第4子・幸太郎)として、長府印内に生れました。
藩士の子弟として藩校の敬業館に通う一方、松隣と号して父から画技を学びました。天保13年(1842)15歳、このころ画いた『馬関真景図巻』は、当時の下関の建築や風俗を知るうえでも貴重なものです。この年、元服して延信と改め、弘化3年(1846)19歳のときには、10年の藩費留学で江戸に出ます。
木挽町・勝川院の画塾は、畳2畳の部屋で稽古が終われば其処に床をとる生活でした。1年遅れて入門した橋本雅邦と「勝川院の双璧」と呼ばれるほどになり、嘉永3年(1850)には弟子頭となりました。これは通常10年のところを4年でその課程を修めたことになります。
そのころ勝海と名乗っていた芳崖は、勝川院の居心地があまりいいものでもなく「師は絵を知り玉わず」といった事もあるようです。塾の顧問、松代藩の三村清山に知遇を得て、同じ木挽町に砲術指南塾を開いた佐久間象山にも私淑しました。
安政2年に留学期限が切れて帰郷。翌々年30歳のとき長府藩士・鳥山家のヨシを妻に迎えました。間もなく母ゆうが他界、父とは別に藩の御用絵師を務めながらも、このころから真剣に雪舟の研究をします。芳崖は「狩野の法外に出る」ことも覚悟し、妻ヨシの兄・鳥山重信が漢学者であったことから、彼と相談して「芳崖」と号を改めました。
郷里にいた万延元年(1860)、前年焼失した江戸城修復のため、師・勝川院雅信の招請で江戸に向かい、狩野友信らと本丸大広間の天井絵を画いたといいます。翌文久元年(1861)には帰国。そのころから長州は維新胎動が激しくなり、芳崖も馬関海峡の測量、戦勝祈願の絵馬作成、時には絵筆を捨てて大砲の鋳造に参加などと多忙を極めます。
慶応元年(1865)、吉田の倉田家から順太郎を養子に向かえ、慶応3年には父・晴皐が死去。この年10月29日に家督を継ぎます。
維新後、廃藩置県によって録を失った芳崖は、住居も職も転々としながら、当時の人が好んだ南画風の絵を描き、養蚕で糊口をつなごうとして失敗、まさに苦難の時期を過します。明治10年(1877)旧藩主や藤島恒興らのすすめで上京し、養子(廣崖)は慶応義塾へ行かせましたが、本人と妻の生活は、さらに貧乏のどん底でした。
精工社に勤め、陶器や漆器の下絵を画いている内に、明治12年(1875)橋本雅邦の紹介で公爵島津家に雇われ「犬追物図」を制作。月給20円を供されて幾らか生活が安定し、画業にも専念することとなりました。
明治15年(1882)、内国絵画共進会に出品した作品は、賞にもれましたが、その後フェノロサが知るところとなり、明治17年のそれには「櫻下勇駒図」が褒賞しました。月給10円で文部省御用掛に準任官となり、同19年1月に図画取調掛(後の東京美術学校)雇として月給15円。2月には小石川植物園に事務所を移しました。明治20年7月10日、苦楽を共にした妻ヨシが他界。その追慕の意味からの発想があったのか「悲母観音図」創作にかかります。明治21年(1888)11月5日「悲母観音図」を絶筆として逝去しました。
参考:『没後百年狩野芳崖展冊子』(下関市立美術館副館長・木本信昭氏論文)及び『幕末の絵師』(桂英澄著・新人物往来社)