大田里灯句碑
高杉晋作のお墓がある下関市吉田の東行庵に、大田里灯の句碑
「蟻の列 奇兵隊小者 喜作の墓」が建っています。
「喜作」というのは、奇兵隊の馬丁で慶応2年(1866)9月29日、馬関で病死、年は19歳となっています。幕末の小倉戦役のころ市内笹山の勝安寺は野戦病院となっていました。喜作は負傷して、この寺に病没したのでしょう。隊士のお墓が、勝安寺には数基ありましたが、これらのお墓は昭和46年に東行庵清水山に改葬されました。
「尊皇攘夷」を叫び、海峡を通航する船に砲火を浴びせたあげくに、手痛い反撃を受けて惨敗したとき、長州藩主の毛利敬親から下関防御の命を受けた高杉晋作は、下関にやって来て奇兵隊を結成、その後も藩内には諸隊が次々と編成されました。彼らは内訌戦を戦い、外国軍との馬関戦争や幕府相手の四境戦争にも果敢に戦って維新への扉を開いたのです。
これに加わった兵士の多くは、喜作達のように10代から20代の若者で、妻子縁者もほとんど無く、お墓もいつの間にか無縁仏になり、草葉の陰で侘しく見捨てられていく有様でした。
東行庵3代目の庵主・谷玉仙尼は、この状況に心を痛めて居られました。そして地元世話人の協力を得て、高杉晋作没後105年祭の昭和46年(1971)の事業として、晋作が眠る清水山に、各地で無縁となった志士たちのお墓を集めた「奇兵隊および諸隊士顕彰墓地」の造成を実現し供養されました。
110余基の顕彰墓地中央の高台には、台座からの総高が約6メートルもある石造の聖観音菩薩が祀られています。
大正10年6月生れの大田里灯(文男)さんは、俳句を兼崎地橙孫、土居南国城に師事されています。昭和20年(1945)5月、新婚早々で下関工業学校(現・下関工業高校)の社会科教師として赴任され、学徒動員引率からの教職の出発でした。
戦後間もなく「工業学校だからこそ文芸が必要、それは創造者のためだ」と、関工に文芸部を創設され、社会科の中では「俳句」を生かされながら「観察力と創造力」を説かれていました。
卒業して約30年、昭和55年(1980)の暮れ、私は大田先生に「蟻の列・・・」の俳句があることを知り、同級生の友人に「まだ現役の大田先生だが句碑を建てたい」と打ち明けました。以後、東行庵の庵主さんほかの方々に相談を持ちかけ、関工同窓生のほか多くの方々の浄財を得て、翌・昭和56年(1981)7月26日の建立除幕にこぎつけたのです。
句碑は、史跡・高杉晋作のお墓から進んで、奇兵隊士顕彰墓地の入り口にあり、喜作の墓は句碑の5基向うにあります。
大田先生が、この俳句を創られた時には「松の根っこを過ぎた蟻の列は、黒々と喜作の墓の方に黙々と這い続け、松籟が時おり音をたてていました。やがて、しきりに鳴いていたホトトギスは、鳴くのをやめ、ホタルの点滅を見ると奇兵隊士の霊ではなかろうかと思った。そのとき『一将功成り、万骨枯れる』であってはならないと感じたよ」と句の想い出を話されました。
大田先生には、この草莽堀起に心を寄せた「蟻の列・・・」のほかにも、私の好きな多くの俳句があります。そして、この句碑を快く建立させて頂いた谷玉仙庵主さんが遷化されて、この10月には20周年になります。