会津白虎隊自刃まで(2) | Issay's Essay

会津白虎隊自刃まで(2)

29会津若松市白虎隊士墓

 会津藩内では、慶応4年(1868)8月22日の早朝、遂に、藩士の子弟の内、16~17歳の少年たちにより組織されていた「白虎隊」に、登城が命じられて即日、雨の中の出陣となりました。
「殿をお守りするのだ」と、欣喜雀躍で日向内記隊長に率いられて出立した少年たちは、本陣から10キロほど、ずぶ濡れになっての行進で、産土山に着いたときは、はやくも疲労困憊でした。突然の出陣で食料の準備も十分ではなく疲労と飢えを見かねた日向内記が、食糧調達に引き返したまま明け方になっても戻ってこないので、隊員の篠田儀三郎が「自分が指揮を取る」と、戸の口原に隊員を向かわせました。
 官軍の参謀・伊地知は、早くも戸の口十六橋に進軍させ、猪苗代城の敗戦兵が橋を落としきる前に、ここを通過し22日の内に、橋を渡りきっていたのです。
 翌23日、朝霧をついて官軍は戸の口原を目指して砲撃を仕掛け、それは「修羅の巷」と表現される凄まじさで、会津藩は総勢500人、官軍は新兵器を持った2500人。(この時点ではたよりにする同盟軍は解散状態となっていました)兵力も武器も大差です。会津藩は必死の防戦ながら官軍の攻勢に隊は乱れて敗散の状態です。37名いた白虎隊も、打ち破れて僅かの半数20名となって、白糸神社脇まで落ち延びました。そこには、猪苗代湖から会津盆地に疎水を引き込む洞門があることを、少年たちは知っていました。
 疲れ果て、負傷したものを庇い合いながらこの洞門を抜け飯盛山の中腹、弁天祠の前に忍び出て、仁王門南の山頂の土手にたどり着いたとき、白虎隊士たちの目に映ったのは「若松城下の黒煙」でした。 
 激しい市街戦の音が聞こえ、城下は一面の火の海で、炎の彼方に鶴ヶ城天主が見え隠れしているのです。
「城下は火の海、城も落ちたに違いない」それまで張り詰めていた、少年たちの気力は遂に途切れました。
「殿は城とともに命を絶たれたのであろう、我々も潔く、ここで君国に殉じよう」と言い出し、次々に20名が腹を刺しあうもの、切腹するもの、咽喉を衝く者など思い思いに自刃していきました。
 実はこの時、鶴ヶ城はまだ火の手も上ってはおらず、その後1ヵ月の籠城に絶えたのですが、町の炎をみて動転誤認した少年の悲劇でした。自刃した20名の中に1人だけ虫の息の少年が発見され、その飯沼定吉だけは奇跡的に一命を取りとめました。後日、白虎隊最後の様子が彼の語りから明らかになりました。彼は後に、逓信省に入り昭和6年まで生きて、79歳の天寿を全うしています。
 少年たちの遺骸は、官軍の目をはばかって放置されていましたが、滝沢村の吉田伊惣次が夜毎、村内の妙国寺に運び、7回忌に当たる明治7年に飯盛山に19基が改葬されました。8月23日は白虎隊士の命日に当りますが、飯盛山の広場の墓前には命日に限らず、線香が絶えません。
 ここから自刃の場所に向かう途中に、飯沼定吉の墓がぽつんとあります。