所在地 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
山号 五台山
宗派 浄土宗
本尊 釈迦如来(国宝)
創建 寛和3年(987)
開基 奝然上人
嵯峨釈迦堂の名で知られる寺です。
【清凉寺(千本釈迦堂)】
五台山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。
この地には、一説では『源氏物語』の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融(みなもとのとおる)の山荘、棲霞観(せいかかん)があり、融の没後、棲霞寺(せいかじ)としたのが当寺の始まりである。
天慶8年(945)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。
その後、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋(中国)から帰国した奝然上人(ちょうねんしょうにん)が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清涼寺」の建立を計画したが、志なかばで没したため、弟子の盛算(じょうさん)が清涼寺を建立して像を安置した。
昭和28年(1953)、背中に蓋が発見され、中に内蔵を模した絹製の五臓六腑などが納められていたことから、生身のお釈迦様とも呼ばれている。
本堂は、元禄14年(1701)に徳川5代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅像(重要文化財)等、多数の文化財が祀られている。
このほか、境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇、檀林皇后の墓などがある。
京都市
嵐電嵐山駅前の道標。
「→北へ 七丁(約760m)」と書いてあります。
もっとある気がするのだが…
長辻通を北へ進む。
野宮神社御旅所前から見た仁王門。
仁王門。
建築年代は不明でたびたび焼失したが、安永6年(1776)再建され、重層華麗で楼上には十六羅漢をまつり、
左右に阿吽の金剛力士(室町後期)が守護している。
阿形像。
吽形像。
仁王門から入る。
境内の様子。
案内図。
境内図。
境内を東側からぐるーっと廻る。
仁王門へ入って東側に愛宕権現社。
慶俊僧都が鷹ヶ峯より愛宕山上に移す際、初めここにまつった故地で、正徳5年(1716)大修理された。
当社は神仏習合時代の愛宕権現の本地将軍地蔵・竜樹・富婁那・毘沙門天の4座をまつり、神仏分離以前は愛宕・野々宮の神事は当社前で行われた。
古来火除の神として尊崇されている。
読めなかった歌碑。
そばに、嵯峨大念仏伝承碑「あみだ母みた母みた」。
裏面の説明。
東門(駐車場)へ向かう道を挟んで一切経蔵を見る。
一切経蔵入口。
入口南側の碑。
脇の石仏。
一切経蔵参道を進む。
南側に八宗論池。
この池をめぐって弘法大師が南都八宗の学僧を論破したという言い伝えがある。
源昇墓碑。
光源氏のモデルと云う左大臣源融の次男。
春。
秋。
(今後も目まぐるしく写真の季節が変わります。)
一切経蔵。
徳川中期の建築。
説明板。
扁額。
正面に傅大士と笑仏を祀る。
経蔵内の法輪を造った上人で、笑っているように見えるため「笑仏様」と言われている。
ここは有料。
明版一切経を納めている輪蔵。
一回廻すと一切経を読んだのと同じ功徳がある。
周囲の四天王。
東は持国天。
音楽の神。
西は広目天。
龍神を率いる。
南は増長天。
鬼神のクンバンダ(鳩槃荼)を配下とする。
北は多聞天(毘沙門天)。
夜叉羅などの鬼神を従える。
奥に経蔵。
一切経蔵を出る。
一切経蔵の南側に弥勒多宝石仏。
背面に多宝塔を刻み、空也上人の作と云う。
一切経蔵の北側にある京料理竹仙へ。
こういう所でまったりしたら気持ち良さそうですね。
竹仙前の紅葉。
歌碑?
湯豆腐食べたかったなぁ…
竹仙前に手水舎。
側面から。
竹仙を後にする。
本堂は後ほど。
北へ進む。
阿弥陀堂。
春。
秋。
源氏物語ゆかりの地説明板。
嵯峨天皇の第12皇子、河原左大臣源融が嵯峨天皇より仙洞(嵯峨院)の地所一部を別荘としてもらい棲霞観(寺)を建てた。
融没後、遺族が寛平7年(895)御堂を建立。
これが阿弥陀堂の始まりである。
幾度かの焼亡を経て文久3年(1863)再建された。
中に光源氏別荘跡説明板。
阿弥陀堂の北に軒端の梅。
ここから東へ進めば霊宝館。
5代将軍徳川綱吉生母桂昌院遺愛の井戸。
突き当たりに霊宝館。
毎年春季(4・5月)秋季(10・11月)に特別公開される。
館内には、棲霞寺本尊阿弥陀三尊像(国宝)、本堂釈迦如来両脇侍文殊菩薩騎獅像、普賢菩薩騎象像、釈迦十六弟子像10体、四天王立像4体、兜跋毘沙門天立像1体(ともに国の重要文化財)等が安置されている。
これらの仏像はすべて平安期に作られたものである。
また、本尊釈迦如来体内封籠品(すべて国宝)のほか、清凉寺宝物の掛軸、屏風等多数陳列されている。
少し戻って、北側に庫裡。
庫裡前の紅葉。
近づく。
この辺りの紅葉がきれいでした。
庫裡の玄関。
西側へ進む。
陽が当たると葉が一層きれいに輝いていました。
本堂から庫裡への渡り廊下の向こうに北門があり、境内北側から東側へと瀬戸川が流れている。
塔頭地蔵院の墓地(現在は大覚寺塔頭覚勝院が管理)に夕霧の墓がある。
あでやかに 太夫となりて 我死なむ
六十路過ぎにし 霧はかなくも
名優と謳われた初代中村雁治郎の末娘に生まれた女優中村芳子が、廓文化を今に残す京の伝統の中に生きるべく、昭和55年11月島原・夕霧太夫を襲名して7年間太夫としてあでやかに京のまちを舞った。
それを偲んで井筒八ッ橋が建立したもの。
吉井勇の歌碑。
いまもなほ なつかしとおもふ 夕霧の
墓にまうでし かへり路の雨
本堂へ向かいます。
(つづく)
(おまけ)
西門を出て、愛宕道を慈眼堂へ行く途中に「夕ぎり太夫遺跡」と書かれた碑が建っています。
秋はどうだんつつじが邪魔で気がつきにくいですが…
初代夕霧太夫(?~1678)は本名を照(てる)といい、この辺りで生まれ、島原「扇屋」の太夫となった。
その後、扇屋が大坂の新町へ移転するのとともに新町の太夫となる。
才色兼備で後に三名妓の一人に数えられた。
若くして(22歳(もしくは27歳))病没すると、大坂中がその死を悼んだと云う。
毎年11月第2日曜日に清涼寺にて「夕霧供養祭」が催され、本堂での法要、島原太夫による奉納舞、太夫道中や墓参が行われる。
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