清凉寺 その2(京都市右京区) | 三日月の館

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案内図。

境内図。

本堂へ。

天慶8年(945)重明親王妃が棲霞寺(清凉寺の前身)寺域に新堂を建立し、藤原氏に寄進した。
その時等身大の釈迦像を安置した。
(これが釈迦堂の名前の由来ともいわれている。)
途中、たび重なる焼失の後、元禄714年(1701)再建された。
単層入母屋造本瓦葺で、徳川初期末の桃山建築の名残をしめす豪華さをもっている。
堂内の宮殿は5代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進による華麗豪壮なもので、本尊釈迦如来(国宝)をまつり、宮殿の裏には古潤筆になる清凉寺縁起の一部を拡大した壁画があり、東の脇壇には中央に開祖奝然の木像を、西の脇壇には厄除地蔵尊(国の重要文化財、鎌倉初期)をまつり、その他法華経浄土教典をおさめた納経塔・桂昌院寄進の絹幢幡お身拭の太鼓・江戸出開帳の際の輿がある。

扁額「栴檀瑞像」。
黄檗宗開祖である隠元(1592-1673)筆によるもの。
本尊釈迦如来像を、インドの優塡王が釈迦37歳の姿を栴檀の木で作ったことを書いたもの。
その後釈迦如来像は、鳩摩羅延三蔵がこの像を奉じてヒマラヤの険を越え、亀茲国(現クチャ)に至り、次いで子の鳩摩羅什三蔵がによって長安に伝えられ、中国山西省五台山清凉寺に安置され、信仰されていた。
そして、約千年前、東大寺の僧奝然が入宋した際に模刻し日本に持ち帰った。
昭和28年の調査の際、胎内から絹製の内臓(五臓六腑)等、26の宝物が発見され、寛和元年(985)の年記があり、正確な造像年代が判明し国宝に認定された。

本堂内は撮影禁止。
庫裡へ向かう。

納骨堂。

裏庭の放生池。
中小島には戦争犠牲者の霊を弔う忠霊塔・供養塔があり、塔の地下には1万数千個の1石1字の写経石や沖縄ひめゆりの塔、其の他、各戦跡血染の小石もこの中におさめられている。

摩尼殿(弁天堂)。
正面に軒唐破風を付け、屋根は宝形造であり、全体的に装飾彫刻が多い建造物。
正面には、両脇の間に腰羽目に「松に親子獅子」、扉に「梅鉢」「牡丹唐草」の彫刻がされている。
建築年代は不明だが、江戸時代後期とされている。

渡り廊下から北門への道を見下ろす。

外から渡り廊下を見る。
本堂側。

庫裡側。

庫裡前からこの辺りまでの紅葉はとてもきれいでした。

カメラを構えている人がたくさんいました。

庫裡へ。

大方丈。
享保(1716~1735)の再建で、襖絵の一部は狩野探幽の筆。

寛永14年の類焼以前のものは6歳で早世した家康の息女一照院(松院)の位牌所として、家康及び実母のおちかの方の寄進によるものだった。
今は大方丈の庭のみが当時のおもかげを伝えている。
小堀遠州作と云う。

書院は宇喜多秀家の妻樹正院(豪姫)が関ヶ原の戦後、隠居したときのもの。
瀬戸川沿いには、大阪茶臼山にあった住友家の建物を移築したもので、前面には鶴の松の庭園といい、北側の松林は住友家始祖政友(文殊院嘉休)の隠居地であり、住友先代吉左衛門夫妻の墓も境内にある。
庫裡玄関から見る。

本堂へ戻る。
渡り廊下から北門を見下ろす。
手前にある建物は練成道場。

摩尼殿と放生池を見る。

本堂を出る。

本堂西側に豊臣秀頼の首塚と大坂の陣諸霊供養碑。
昭和55年に大阪城三の丸跡地の発掘現場から出土した豊臣秀頼の首を、昭和58年に秀頼再興の由緒をもつ当寺に納められたもので、首に介錯の跡がある。
清凉寺墓地には、大坂夏冬の陣の名将、渡辺一族の墓がある。

西へ進む。
境内西に薬師寺

 

所在地  京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
山号   竜蟠山
宗派   浄土宗知恩院派
本尊   心経秘鍵薬師如来像
創建   弘仁9年(818)
開基   弘法大師

 

本堂。

由緒書。

【嵯峨竜蟠山薬師寺】

当寺は、身心の病魔退散を祈って西紀817年に建立された嵯峨天皇の勅願寺である。
ご本尊の心経秘鍵薬師如来は勅封仏で、天皇のお許しがないと拝めなかった。
信者には皇族、公卿、諸侯をはじめ5代執権北条時頼公等の名が残っている。
明治までは嵯峨御所(今の真言宗大本山大覚寺)の御事務所が置かれていた。
現在は浄土宗に属する。
また、次の3地蔵をおまつりしている。
 生六道地蔵大菩薩(小野篁作)
 瑠璃光地蔵菩薩像(名仏) 
 夕霧地蔵菩薩像(名仏)
盆のお精霊送り、安産、開運、学業向上、良縁を守る地蔵尊と信じられている。

 

「生の六道」の碑。
井戸があった福正寺は大覚寺門前にあったようだ。

小野篁は、毎夜東山六波羅にある六道珍皇寺の空井戸から冥土へ出かけて閻魔王を助け、朝になると嵯峨六道町の福正寺にある空井戸からこの世へ戻ってくるのが常でした。
あるとき、地獄に赴いた篁は、猛火の中で苦しむ亡者を救い、その身代わりとなって自ら焼かれておられる地蔵菩薩のお姿を見ました。
篁はその地蔵菩薩の尊さに心を打たれ、そのお姿を彫刻し、冥土の出口にある福正寺にお祀りしたそうです。(『地蔵尊縁起』より)
冥土からこの世に戻ることを「生まれる」ととらえ、そこが「六道」からの出口であることから、この出口を「生六道(しょうろくどう)」といい、この地蔵菩薩像を生六道地蔵菩薩と言うようになったと伝えられています。
なお、福正寺は明治時代に入って廃寺となり、明治13年(1880)に薬師寺に合併されました。
そのとき、この地蔵菩薩像を含め、いくつかの仏像が薬師寺に移されました。
福正寺にあったと言われる空井戸は、残念ながら現在は残っていません。
(薬師寺HPより抜粋)

 

日月門。

三地蔵尊(生六道地蔵菩薩の分身、夕霧地蔵菩薩像、瑠璃光地蔵菩薩像)と庫裡。

西門。

西門から仁王門へ向かう。
狂言堂。

毎年4月の大念仏会に、円覚上人が庶民に教義を説く為に作られたと言われる嵯峨大念仏狂言が演じられる。
(国指定重要無形民俗文化財)

説明板。

鐘楼。

鐘楼は江戸時代のものとされ、石垣の上に組まれた4本柱の造りは一般的なものである。
梵鐘(京都府指定文化財)には、文明16年(1484)11月吉日の日付と、寄進者の中に、足利義政・日野富子・征夷大将軍義尚及び堺の商人の銘のあることにより著名である。
嵯峨十景のひとつ五台の晨鐘がこれである。

境内西側を南下。

奝然上人墓(鎌倉時代の石幢)へ。

昭和60年の釈尊造像1千年を期に、飛地境内にあったものを移建したもの。
旧寺院地蔵院墓地には、前述の夕霧の墓のほか、円覚(十万)上人の石幢(鎌倉時代)がある。

説明板。

嵯峨天皇・壇林皇后宝塔。

北側の宝篋印塔(平安末期)が嵯峨天皇の宝塔、南側の層塔(平安中期)が壇林皇后の宝塔で明治以前は御陵とされていた。
(嵯峨天皇陵と檀林皇后については檀林寺ご参照)

多宝塔。
元禄13年(1700)江戸護国寺での出開帳の際、江戸の老若貴賤の寄進によりなったもので、のち元禄16年、廻漕建立したもの。
春。

秋。

多宝塔の背後に源融の墓。

一説には、棲霞寺開山淳和天皇の皇子恒寂親王の墓とも。

読めない…

聖徳太子殿。
春。

秋は紅葉に埋まる。

法隆寺夢殿を模している。

この辺りも紅葉がきれい。

これからのもありました。

大文字屋。

あぶり餅が名物です。

大文字屋だけなら通用口から行けます。

法然上人像。

説明板。

境内を見渡す。

仁王門から長辻通を見る。
この辺りは渋滞が激しいので歩きましょう!

仁王門を振り返る。

最後に御朱印。

付近に名所が多く素通りしがちな清凉寺でした。

 

(おまけ)

 

仁王門付近に石碑が林立しています。
東側。

西側。

その中に「つきあたり 小楠公御首塚の寺」の碑がありました。

宝筐院へ向かいました。

 

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