檀林寺(京都市右京区) | 三日月の館

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所在地  京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町2-10
山号   松森山
宗派   真言宗大覚寺派
本尊   准胝仏母
創建   承和年間(834-848)
開基   橘嘉智子(檀林皇后)、義空(開山)

 

由緒は正しい、風変わりな寺院です。


 

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今年の秋は二尊院

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例年以上の大混雑。

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そんな人気スポットに目もくれず素通りし、目指すは…

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二尊院の先、碑の建つ所を、

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西へ登って行くと、

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祇王寺の手前にあります。

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説明板。

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【檀林寺】

当寺は、平安時代の初め、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)(786~850)が創建した寺院に由来する。
皇后は、容姿美しく婦徳に秀で、学芸を愛され、橘氏の学校として学館院を設けたといわれている。  また、皇后は、深く仏教を信仰し、嵯峨の地に檀林寺と呼ばれる壮大な寺院を営み、盛時には、十二坊を数えたといわれている。
さらに、皇后は、当時、来朝した中国の僧、義空を師として、この寺で禅書を学び、これが、我が国で禅が唱えられた始めといわれている。
当寺は、この由緒によって、昭和39年から再建された寺院であるが、霊宝館には、皇后ゆかりの品をはじめ、日本、中国の仏教美術の数々が納められている。

京都市

 

もう一つの説明板。
https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/f/1/f10d27db.jpg
2つとも本当に京都市が建てた駒札だろうか?
中を覗くと、立っているおばちゃんが「どうぞ」と手招き。
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入らずに門から境内の写真を撮っていたら…
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「入らない人は撮影禁止です。」
と、一言。
入山料を払うとニッコリ
なんやねん
何か胡散臭さを覚えつつ境内へ。
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境内を進むと、今度はおじさんがやって来て解説してくれたが、一向に耳に入らない。
要は、この寺は由緒もあり宝物がたくさんあって素晴らしいらしい。
よって、頂いたパンフレットを基に。
本堂(宝寶閣)は法寶閣造りで、法楼風を残した特殊な構造の典型でよく旧態を示している。
法宝閣の名声は昔から極楽殿と親しまれてきた。
曼荼羅図の法宝閣を基本に庇も浄土観をただよわす構図は、まさに宝蔵造りそのものである。
これは正面下層の中央部を截り一段上へ屋根を高く変化を見せ、裳階をつけた入母屋造りの特色をとどめた連子窓にみられる。
その上三層楼屋根は勾欄を施し、軒は短く、頂峯の露磐にとまる瑞鳥は天空に向い経文を唱える雄姿は、輝かしく堂々たる造形である。
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正面軒下の法宝閣の大扁額(平安時代)を掲げ、偉容を誇るのは、以前の意匠を伝えるものである。
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各層軒の丸瓦紋と、正面の金彩に輝くものは共に十六弁菊花紋である。
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正面入口の石段は、九段止め九重の段として従法に基く寺格を示し、
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その左右には蟇股の鳳凰の彫刻が一対嵌めこまれている。
この極彩色浮彫彫刻は、豊麗豪放なもので、力強く(宗達筆彫)貴重なものである。
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正面一基の石燈籠(櫓形)は桃山時代であり、
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右手の石造仏塔は奈良時代のものである。
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本堂の内陣には御本尊として、檀林皇后を型どったという容姿端麗な准胝仏母尊(藤原時代)をおまつりしている。
大欄間の音響菩薩(天女)四尊はそれぞれ楽器を手に、極楽浄土へ舞い上がる立体美の彫刻(桃山時代)である。
倶利迦羅明王と火焔は、本質を象徴する格調高い絶妙な作品で、仏教美術史上まれに見る傑作として知られている。
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その他霊宝館を含め彫刻・絵画・工芸品等が数多く宝蔵され、順に展示陳列されている。
東寺郷の松森家が檀林皇后の御遺品および伝来の寺宝とともに浄財を献じて再建した。

 

本堂内部は撮影禁止なので写真は無いが、狭い内陣の奥に霊宝館があり、種々の古美術が陳列してあった。
古いものでは飛鳥時代のものもある。
国の重要文化財に指定されていないのがおかしいくらいの宝物が手が届きそうな所に無造作に置かれていた。
本物だろうか?
と、疑いつつ古美術をセールスされるとの噂もあり、いそいそと外へ。
庭を見てまわる。

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八角形燈籠。

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織部燈籠。

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瓢箪池。

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森青蛙が生息する。

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もう秋も終わりか~

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境内はそんなに広くない。

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ここを曲がると、

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出口へ。

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紅葉が一番の宝物。

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京門から出る。

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最後に御朱印。

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昭和39年に再建された檀林寺を後にする。
(今年冬の写真)

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何かハプニングがあるかと期待したが、たった15分であっさり見終わってしまった。
さて、この怪しい檀林寺は、元々は現在の嵯峨児童公園付近から天龍寺にかけて広大な境内を持つ寺院だったらしい。
嵯峨児童公園では当時の礎石が発掘されたとか。

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京都市埋蔵文化財研究所によると、檀林寺はこの公園より南にあったという。

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JR山陰本線の踏切を渡って、

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野宮神社前を通過。
野宮神社は嵯峨天皇の代にこの地に鎮座。

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野宮神社の南に建つ三宅安兵衛が建てた碑。

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「亀山公園道 此付近 檀林寺の旧… 前中書王の遺…」
と書かれている。

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石碑の隣りは天龍寺境内。

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本来の檀林寺は、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后)が承和年間(834-848)に創建した尼寺で、開山は唐の禅僧義空で、日本最初の禅門の寺となった。
皇后の死後官寺となるも、平安時代中期には荒廃したらしく、室町時代には廃絶。
その跡地に天龍寺が建てられたという。

 

(おまけ)

 

檀林寺を創建した橘嘉智子は、嵯峨天皇の皇后で橘氏出身で唯一の皇后。
世に類なき麗人であったといわれる。
嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王)・正子内親王(淳和天皇皇后)他二男五女をもうけた。
夫嵯峨天皇の譲位後、ともに冷然院(冷泉院)、嵯峨院に住み、とくに842年(承和9)夫の死後太皇太后として重きをなした。
冷然院は現二条城の北東部分にあったと云う。

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冷然院跡の碑。

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説明板。

https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/c/3/c3823909.jpg

その後、離宮朱雀院を経営し、橘氏の子弟のため大学別曹学館院(学宦院)を設立するなど、勢威は後漢の鄧皇后に比べられたという。
仁明天皇の没後まもなく嘉祥3年(850)5月4日、65歳で薨じた。
陵墓は京都市右京区嵯峨の嵯峨陵にある。

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また、仏教に深く帰依していた檀林皇后は、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる。
または、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある。

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その皇后の遺体が置かれた場所が「帷子辻」。

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または、皇后が身につけていた経帷子(死装束)が風で舞い上がり、落ちた場所との説もある。

 

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