二尊院(京都市右京区) | 三日月の館

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所在地  京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27
山号   小倉山
宗派   天台宗
本尊   釈迦如来・薬師如来
創建   承和年間(834-837)
開基   円仁、嵯峨天皇(勅願)

 

百人一首ゆかりの紅葉の名所です。

 

【二尊院について】

「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、二尊院と呼びますが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」といい、明治以降天台宗に属しております。

嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が承和年間(834~847)に開山したといわれております。

釈迦如来は、人が誕生し人生の旅路に出発するときに送り出してくださる「発遣の釈迦」、阿弥陀如来を、その人が寿命をまっとうしたときに極楽浄土よりお迎えくださる「来迎の弥陀」といいます。

この思想は中国の唐の時代に善導大師が広め、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれ、当寺は現在法然上人25霊場第17番札所となっております。

応仁の乱(1467~1477)により諸堂が焼失しましたが、本堂、唐門(勅使門)は約30年後に再建されました。

唐門「小倉山」後柏原天皇の勅額、本堂「二尊院」後奈良天皇勅額はこのとき下賜されたものです。

当寺は、明治維新まで天皇名代として勅使参詣があり、御所の仏事を司り、公家方との交流も盛んでした。

現在も旧摂関家の「二条家」「鷹司家」「三条家」「四条家」香道の創始家でもある「三条西家」や「角倉家」など豪家の菩提寺です。

本堂(京都市指定文化財)は京都御所の紫宸殿を模して造られ、内陣も内裏のお内仏と同様に造られております。

外陣の床はうぐいす張りです。また、総門(京都市指定文化財)は豪商角倉了以が伏見城の「薬医門」を慶長18年(1613)に移築したもの、参道は「紅葉の馬場」といわれ秋には紅葉が美しい所です。

山中の「時雨亭跡」は藤原定家が百人一首を撰定した場所として名高く「御園亭」は後水尾天皇第5皇女、賀子内親王化粧の間を元禄10年(1697)に下賜され移築したもので、伝狩野永徳筆の天袋があります。

梵鐘は慶長9年(1604)の鋳造でしたが、平成4年(1992)に再鋳し、「しあわせの鐘」と名づけ、世界平和を祈願して皆様に撞いていただいております。

(パンフレットより) 

 

参道前の駐車場。
燃えるような紅葉。

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小倉山二尊院の碑。

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隣りは「小倉餡発祥の碑 二尊院山内←」と書かれていた。

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行ってみる。
まず、境内図。

https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/0/2/026e18f1.jpg

総門。
伏見城の薬医門を移築したものと云う。

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「我がものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより」
西行法師の庵があったと云う。

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紅葉の馬場。

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階段を登る。

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振り返る。

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築地塀と紅葉。

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風情ありますね〰

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勅使門(唐門)から境内へ入る。

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境内から見る。

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勅使門を入ると正面に本堂があります。

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茶室「御園亭」が特別公開中だった。

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本堂奥の庭。

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その奥に御園亭がある。

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本堂で抹茶券500円を購入しないと奥へは行けず。
断念。

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法然上人足曳の御影。

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後奈良天皇の勅額。

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御霊屋。

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本堂を後にする。

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本堂脇にある九頭龍弁財天堂。

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正面から。

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角倉了以の像。
境内に角倉了以の墓がある。

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境内の奥の山の斜面が墓地になっている。
「角倉了以翁墓道」の碑。
豪商の力を感じる。

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しあわせの鐘。

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結構きつい階段。

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登りきった所に法然上人廟がある。

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失礼します。

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天井もなかなか。

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奥に時雨亭跡がある。

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法然上人廟の奥の山道を進む。

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スズメバチやマムシに注意。

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時雨亭跡。

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ここで藤原定家が百人一首を撰定したと云う。

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諸説があるので確実ではないが、それっぽい跡がありました。

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法然上人廟へ戻る。
付近には公家の墓が建ち並ぶ。

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奥には天皇の墓も。

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角倉了以の墓。

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八社ノ宮。

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小倉餡発祥の地の碑。

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裏に説明板がありました。

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【小倉餡発祥の由来】

日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの820年のことであります。
当時, このあたり小倉の里に和三郎という菓子職人がいて, 亀の子せんべいを作っていましたが、809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮つめて餡を作り、これを毎年御所に献上されました。
その後、この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子にも用いられ、ハレの料理にも加えられるようになりました。
和三郎は承和7年2月2日(840年)に亡くなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々がその功績をたたえて小倉中字愛宕ダイショウの里に一社を建て、朝廷の允許を得て、屋号が亀屋和泉でありましたので、和泉明神としてまつられるようになりました。
その後年月を経て明神の社は兵火に焼かれ、子孫も絶えて、只古老の伝承として伝えられてきましたが、昭和23年3月に嵯峨商工研究会の席上にて藤本達造氏を含め高桑義正、鈴木広政、都田左兵衛(五代)、中路明の諸氏の方々から此の伝承が確認されています。
今ここに創業200年を記念してこの碑を建立することにより、小倉餡の歴史を解明する端緒となれば幸いです。

平成17年3月6日
井筒八ツ橋本舗 六代 津田左兵衛建之

 

なるほど、小倉餡の小倉はこの地に由来するのですね。
最後に御朱印。

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次は祇王寺へ向かいました。

 

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