プールサイドの人魚姫 -97ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


タミフル インフルエンザウイルスは人類最大の敵なのだろうか?毎年冬になると新種が現れ、人間の生活を脅かす厄介な菌である。少しでも症状を軽くする為ワクチンを摂取してその対策に備える。子どもや老人など体力が比較的弱い場合若しくは別の病気を抱えている私のような人間は最も注意しなくてはならない。人類はこの永遠の敵であるウイルスに対抗しようと懸命に治療薬を開発するが、効果が高い薬ほど副作用も大きくリスクは付きまとう。今問題になっているタミフルであるが、A型B型両方に効く人類が生み出した中では最も優れている薬かも知れない。しかしながらこのタミフルを呑んだ後に突飛な行動に出て命を落とす事例が増えている。因果関係について厚生省は今のところ沈黙を通しているが、薬害エイズのような事例に発展しない事を祈るばかりである。世の中に完璧な薬など存在しない。どんな薬でも必ず副作用はある。そして人によって副作用の症状はまちまちで全く影響のない人もいるだろう。アレルギーを持っている人が急激に増えてきているが、これは人が余りにも薬に頼り過ぎた結果なのかも知れない。本来備わっている自然治癒力が薬によって低下する現象がおき、薬なしでは生きられないほど弱体化してしまった現代人の未来は暗雲が立ち込める嵐の前の静けさに似ている。わたしを含め薬に人生を預けている人は大勢いるだろう。30%の死より70%で生きられる尊い命をありがとう、そう呟きながらが大量の薬を喉の奥に放り込む。病気や薬に対しわたしは既に諦念とも言える日々を送っている。医療が進歩し、日本人の寿命はうなぎ登りの如く高くなった。しかし本当に長生き出来て幸せだと思っている人がどれだけ存在するかは疑問である。認知症や介護を必要とする人生ならば短くてもよいから死なせて欲しいと願う。本人の意思を尊重した医療こそが生命を守る基本ではないかと思う。

バス 先日、雪崩の事故について記事を書いたばかりであったが「あずみ野観光バス」の事故は多くの死傷者を出し、今冬では最も悲惨な事故になってしまった。コロンビアでも同じように観光客を乗せたバスが谷底に転落し、邦人数人に死者が出たもようである。貸切バスを運営する会社はここ数年で倍以上も増え、競争も激化している。如何に会社の利益を上げ運営の歯車をスムーズに回転させるか、やはり旅行会社の世界にも価格競争がその歯車を狂わせているとしか思えない。削るとすれば人件費。従業員は出来るだけ少なくし、労働時間を伸ばす。この事故も起こるべくして起こった安全と自己管理を怠った会社側の個々に対する激務の象徴である。「利益の前に道は開けず」これは会社経営の根本を立て直す為の教訓として経営者の頭に叩き込んで欲しい。目先の利益だけを追求していては、開かれる道も遠のいてしまうと言うわたしの言葉である。人の命を預かる仕事は他に幾らでもあるが、自分の体調と人様の命を秤にかけるような真似だけはして欲しくない。命に重さはあらず、測れるものではない事をよく考えてみよう。

約半年ぶりにライブハウスへ出かけた。切っ掛けは友人であるミュージシャンの江戸川レノンこと石井ひろあきさんからのメールだった。「日曜日アルマナックハウスでライブやります」とのメッセージに嬉しくなった。仕事を始めたこともあり小遣いも多少増え、ドリンク一杯くらい飲めるようになったので、二つ返事で了解の返信メールを送った。本八幡行きの電車に乗りながら考えていた。石井さんの歌を聴くのは半年ぶり、今夜はどんな曲を聴かせてくれるのだろう。ビートルズナンバーは何をやるのかな?などなど。そして他のバンドやミュージシャンの顔ぶれも気になるところだった。ライブハウスへ行くと様々なタイプのシンガーと出会う事が出来る。それもまた楽しみの一つでもあったりする。ドアを開けると中央の丸いテーブルでビールを飲んでいる石井さんの姿が見えた。珍しく帽子を被りよく見ると眼鏡も変わっていた。半年ぶりの再会に笑顔の握手で迎えてくれた。ライブハウスとしてはわりと小柄なアルマナックであるが、その良さはマスターのシンガーに対する思いやりが表れていた。プロ・アマ問わず広く門戸を開放し、多くの若いミュージシャンにライブの場を提供している。そんなアルマナックのいつもの店内にある楽器を見つけた。店の窓に近い位置、ピアノやアンプなどが並んでいるその片隅に実に窮屈そうにしているウッドベースがあった。飾りにしては置き方にぎこちなさがある。おそらく今夜のメンバーが演奏に使うのだろうと思った。二人組の女性シンガーがピアノの弾き語りをやっており、店内には優しい和やかな雰囲気に包まれていた。彼女たちが終わり、次のシンガーはギターの弾き語りであった。ほのぼのとした70年代の懐かしいフォークを思い起こすギターとボーカルがコミカルな詞に笑いを誘った。そして登場したのが3人組みのバンド。彼等の歌「楽しいお酒を飲みましょう」が始まると店内の雰囲気はガラリと変わった。ウッドベースは回転し、バンジョーが歌う。そして洗濯板の楽器は音の玉手箱へと変身していく。「ジャグバンド」あまり聞きなれない言葉であるがジャズではないと思う。20世紀初頭、アメリカ南部の黒人たちから始まった代用楽器を使った楽団のことである。当時のアメリカは黒人たちが奴隷として扱われていて、これもまたアメリカの汚点でもあるが黒人たちはその苦しみを音楽に変えて楽しんでいたのであろう。これもブルースミュージックのジャンルに位置づけられている。狭い空間に音と歌声が響き渡りシンガーと聴衆の隙間がリズムで埋まっていく。調和と一体感、これは小さなライブハウスならではの良さでもある。それにしてもヴォーカルのちくわ君が憂歌団の木村に似ていると思ったのはわたしだけではないだろう。

個人情報 1990年以降に情報化の波が押し寄せて来た。パソコンやインターネットの普及により、家に居ながら一歩も外に出ず様々な買い物が出来るようになり、それに伴って流される情報も多岐にわたりその氾濫によって益々混乱を招く事態にもなっている。そして更に拍車をかけたのが携帯電話である。現在ではPCの性能は20年前の物とは比べものにならないほど発展を遂げ、今や一家に一台が当たり前となっている。携帯電話の普及率に至っては80%に近い。便利な機能が付加され、携帯で買い物まで出来る時代となった。世の中が便利になるに越した事はないが、安全性の確立は如何なるものかと首を傾げる事故が相次いでいる。便利な物の一つとしてクレジットカードがあるが、現金を持ちたがらない人にとっては貴重なアイテムである。わたしもJCB、ジャックス、マスター、住友ビザカード、オリコと言った多くの種類を抱えているが使うカードは殆ど決められていて、その他のカードは無用なのだが、いざと言う時の為に財布の奥に閉まってある。先日起きた信販大手「ジャックス」クレジットカード流出事件。個人情報が漏洩したその背景には必ず複数の人間が関与している場合いが多い。危機管理を徹底させ厳重な管理体制を施しても所詮人間の作りだしたものであるし、完璧な情報システムはないと言うのが本音である。必ず何処かに見落としや抜け道があるものだ。所詮人間が管理するものだけに、穴だらけなのは当たり前かも知れない。だからこのような情報流出は無くならないしウィニーによる被害も後を絶たない。さて、個人情報が売買されているのだから当然値段が付く。例えば名刺の場合は10円で取引されている。企業の規模・役職によっては10倍から100倍に跳ね上がる。年収の多い人ほど値段が高いと言う所か。氏名・年齢・住所・生年月日は0.2円と最も安い。但し20代の女性は200倍を超えることもある。一番高い値段で取引されるのがクレジットカードで一万円から。カードのランクによっては価格が上昇する。そしてメールアドレスは1円。同窓会名簿や有名大学の名簿は破格である。悪質な情報屋が今後も増え続け、庶民の不安は便利さと裏腹に薄氷のように壊れやすく、筒抜けだと言う事を頭の中に入れておくべきだろう。それにしても監視カメラや防犯カメラが街中に点在しているのにプライバシーや個人情報を守ろうと言うのは矛盾な気がしてならない。

給食 給食費を払わない保護者が増えているようだ。このニュースを聞いた時、生活に困っている一人親家庭、或いは生活保護を受けている家庭だとばかり思っていたのだが、とんでもない。携帯電話は使い、結構な車も所有している一般的な家庭だと言う。払わない理由がまた屁理屈で、義務教育だから払う必要がない…らしい。このような解釈をする親たちの子ども時代はどんなだったのだろう?更に義務と位置づける教育事態も受け止め方に相違が生まれて来たことも背景にあるのかも知れない。わたしは給食を知らないまま小学校を卒業した。藤枝小学校はわたしが入学した昭和37年当時から近代的な5階建て鉄筋コンクリート。トイレは水洗であった。プールは25mと50m二つがあり、運動場も二つあった。生徒数1000人を超えるマンモス小学校。藤枝西校とサッカーで有名な藤枝東校に挟まれ、直ぐ近くには蓮華寺池がありボートや釣りを楽しむ事が出来、山と豊かな自然に恵まれた大変環境の良い学校であったが、何故か給食制は導入されていなかった。皆それぞれの母親たちが日の出とともに朝食の支度とお弁当作りから一日が始まって行った。出来立ての温かいお弁当をランドセルに詰め、勢い良く「行ってきます」と家を走り出す子どもや、毎日のように遅刻して来る子どもなどもいた。教師や親の間で教育は義務なのだという言葉は一つも聞かれた事はなかった。教育というより子育てに近かった時代である。時計が11時を過ぎる頃になると子どもたちの腹の虫が騒ぎ出す。勉強より時計と睨めっこしている方が多かったと思う。お昼のチャイムが鳴ると同時に机の中から一斉に弁当箱が飛び出す。朝は温かかったお弁当も昼には冷たくなっているが、子どもたちの眼は輝いていた。おかずが何か気になる子どもがいたりして、この楽しい筈の昼食タイムがある子にとっては耐え難い苦痛になったのである。時間が経っても中々弁当の蓋を開けようとしない。他の生徒が気になってどうしたのと詰め寄る。先生は既に箸を動かしながら不思議そうに見つめている。そしてとうとうその女子は泣き出してしまったのである。隣の男子が思い切って蓋を開けてやると、何と高級食材で普段では全く口に入らない「鰻の蒲焼」だったのである。その女子にとってはそれが気に入らなかったのか理由は聞けなかったが、お弁当の中身が原因でいじめに合う時もあった。もし、学校が給食だったら、おそらくわたしは不登校にならなかったかも知れない。何故なら学校へ行けば飯に有り付けるから。給食費を払えないからと言ってその子だけ食べさせない訳にも行かないだろう。父は米が家にある時は弁当を作ってくれた。アルマイトで出来た金色の四角い弁当箱に真っ白い炊き立てのご飯とその真ん中に梅干が一つ。日の丸弁当である。それでもわたしは弁当を持って学校へ行ける日は楽しかった。おかずが梅干や鰹節だろうが、クラスの子どもたちの眼など気にもしなかった。父の愛情が一杯詰まった弁当でお腹が膨れあがる。昼休みは先生も一緒に遊そびに加わり学校中が子どもたちの笑顔で溢れていた。これが本来の学校の姿である。いじめのない学校など夢物語りに近いが、教育の原点は楽しく学ぶ事であると思う。そして給食が学校任せだと思ったら大きな間違いである。献立表が何故家庭に配られるのか、それをよく理解して貰いたい。昼食と夕食が重なってしまわないように賢い親であれば気を使うだろう。給食には目に見えない所で親も参加しているのである。子どもに「今日のお昼は美味しかった?」と尋ねて見るとよい。給食費の不払いがいじめにつながらないよう祈るしかない。
 


スキー 今年は例年にない暖冬で各地のスキー場は雪不足に頭を抱えているだろう。東京の空にもいまだ雪の足音は聞こえない。それよりも春一番が吹いてしまった。このまま雪を見ずに春を迎えてしまうのだろうか。やはり異常気象の影は冬の空にも影響を与えているようだ。わたしが最も苦手とするスポーツがスキー、スケート。滑るものは駄目である。と言っても心臓の悪いわたしに出来るスポーツなどごく僅かであるが。10代~20代にかけては病気はあるものの、結構健常者と同じようにスポーツは楽しんでいた。若さは恐さを知らないという利点がある。場合によってはそれが暴走して命を落とす結果に繋がる時もあるが、時には病気を忘れる事も必要。そのわたしが初めてスキーを体験したのが16歳の時。会社の先輩たちと一緒に長野県の白樺方面に2泊3日でスキーに出かけた。スキーウェアなど今のようにお洒落な物は持っておらず、月給3万円のわたしに新たに購入出来るはずもなかった。スキー板も先輩の使い古した物で済ませ、スキー靴などもなく普段履いているスニーカー、服装はジーンズと厚手の上着のみ。それでも毛糸の帽子だけはそれらしい物を用意した。昼頃到着したスキー場には人影もまばらで、初めてのわたしにとっては、スキーってこんなものなのか?と疑問だらけだった。雪は少なく描いていたイメージとは程遠く、サクサクと雪の上を歩けるのかと思いきや、雪は凍って氷のようになっており、板を担ぎながら必死で転ばないよう上え上えと足を運んだ。人工降雪機が大きな音を響かせ回転している。情緒のない風景に少しがっかりしながらもスキー板に自分の靴を金具で固定する。滑り方など何も知らないわたしは人の真似をしながら滑って見る。滑っては転び、その連続で身体中に青あざが出来たのではないかと思った。基本であるボーゲンなるものを先輩から教えて貰ったのは時間が随分経ってからだった。スキーに最適な雪はやはり北海道だろう。パウダースノー(乾燥粉雪)が理想である。そんな雪質などを考えている余裕はなく、如何に転ばず前に進めるか、ただそれだけだった。何故かスキー場にいる女性がみんな美人に見えた。わたしの転んだ後にはジーンズの青い色が真っ白なパレットに滲んだように浮かび上がっていた。次の日は車山だった。遠くに浅間山が見え、微かに山頂から煙らしきものが流れていた。昨日とは随分変わって、大勢のスキーヤーで賑わっていた。避けることも出来ないわたしには当然方向転換が上手く出来ない。そのまま相手に向かってぶつかってしまうのである。この大きなスキー場で偶然にも中学の同級生と出会った。向こうもさすがにびっくりしていたが、わたしもかなり驚いた。たった二日のスキー初体験…。あれから30年以上経つが、最初で最後のスキーとなった。今では骨折や怪我などの危険があるスポーツは禁止されている。それでももしチャンスがあればもう一度滑ってみたいと思っている。その時はベテランスキーヤーの家内に教えて貰おうと思う。

チョコ 2月14、15日は体調がすぐれず仕事を休んでいた。家では13日から娘が友達二人と共同でチョコレートを作っており、余りにもたくさん作ったので誰に上げるのか尋ねてみたが、無視されてしまった。わたしにも回って来るだろうなと言う甘い思いは打ち砕かれた(-_-;)。昨日会社に行ってみると机の上に小さな丸いチョコレートが置いてあった。何故かとても温かい気持ちになった。入社したてで、しかも休んでいたわたしにも義理チョコとは言え数の内に入れてもらえた事がとても嬉しく、こんなに優しい会社に入れてよかったとつくづく思った。社内には女性スタッフが大勢働いているので、誰がくれたかは分からない。まさか声を出して聞き御礼を言う勇気などない。言われた方も困るだろうと、包みを開けサッと口の中に入れた。口の中に広がる二日遅れのバレンタインデー。それはわたしの最も好きなお酒の入ったチョコだった。子どもの頃からウイスキーボンボンが大好きだった。大人になった今ではファミレスなどには売っていない。
バレンタインデーが習慣として日本に根付いたのは1968年頃らしい。女性から男性に贈ると言うのは日本だけで、諸外国では男性から女性にプレゼントする。チョコレート一つで相手の気持ちを掴む事が出来たなら実に簡単で、恋の花が咲いてくれればこのような習慣は女性、男性にとって有難いことだと思う。人に物をプレゼントするその行為こそが素敵である。受け取る側も実に嬉しい。確かに儲かるのは菓子メーカーだが、中々出会いや告白のチャンスがない現代では貴重な告白タイムかも知れない。ただし、義理チョコという少し厄介な問題が女性たちを悩ませているのも事実で、心理的に見ると「また買わなくちゃいけない…」と強迫観念に捉われてしまう女性もいるのではないだろうか。義理チョコと本命の区別がつかない相手だったりすると困ってしまう。その場の空気で分かりそうなのだが。本命には手紙の一通でも添えてあげれば確実に伝わるだろう。そんな本命チョコを過去に貰った事があっただろうか?思い出せない…(T_T)



山 暖冬と世間では言われながらもここ青森にある八甲田山では雪が音もなく降り積もり、観光客のスポットライトでは連日、スキーツアーの客たちで賑わっていた。雪山の中でも難所と言われる八甲田であるが、スリルを求めてここに集まる熟練観光客は多い。ツアー用に用意されているルートは幾つかあり、地元民も安心してツアーを楽しむことが出来るのだが…。先日、八甲田山で起こった雪崩の被害はまざまざと自然の猛威を知らされるニュースとなった。と同時に思い起こされるのが新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を原作とする映画である。北大路欣也の台詞「天は我々を見放した」このフレーズが今でも青森の地に雪が訪れると思い出す。どんなに訓練を積んだガイドでも一つの判断ミスにより想像を絶する事故に巻き込まれる結果を招いてしまうものだ。山の天候は非常に変わりやすい。夏でも冬でもそれは同じで、高い山ほど荒れ模様になる。多くの知識と経験を積んだ山のプロでさえ、予期せぬ出来事は起こりうる。経験が産んだ油断だとすれば、人間の自然に対する認識が甘かったとしか言い様がない。私の伯父は登山家で、日本の山は全て登り切った。その中で一度だけ遭難した事がある。一人小さな洞窟を見つけ何日も助けが来るのを待ったと言う。サバイバル術を見につけていなければ、おそらく助からなかったかも知れない。道に迷ってしまった時は安易に移動してはならない。近くに避難できる場所があれば身の安全を確保する事が先決。後は天候の回復を待つしかないのである。身の危険を感じ、危機に陥った時、生き残れるかどうか、それには冷静な判断力が必要となる。大自然が相手となればなお更のこと。大地震や津波、台風などの自然災害は避けて通れない人類共通のテーマであるが、被害を最小限に留めるには出来るだけ自然に寄り添って生きていくべきなのではないだろうか。

パンダ わたしが初めてパンダを見たのは18歳の時。職場の先輩が東京、上野美術館で開かれている「安井賞展」を見に行くと言うので同行させて貰った時。安井賞を分かり易く説明すると、画壇の芥川賞と言っておこう。洋画家の登竜門であった。昭和32年に発足したこの賞も平成8年第40回を最後に幕を閉じた。洋画の愛好家であればその存在がいかに輝かしいものであったかはご存知の筈。静岡駅を出発した時小雨が降っており、あいにくの天気ではあったが、生まれて二度目の東京という事もあり心は曇った空とは裏腹にすっきりと晴れ渡っていた。一度目の東京は小学4年だった、それも父の出所を迎えに行くという、まるでドラマのシーンを演じているような錯覚に満ちたものだった。昼頃東京駅に着くと、春の嵐が聳え立つビル群の合間でわたし達を迎えてくれた。地下鉄を乗り継いで上野まで数分。美術館は上野の森公園の中にあり、そこえ辿り着くまで結構歩いたと記憶している。飛び跳ねる雨水でスニーカーやジーンズはびしょ濡れだった。初めて見るその「安井賞」に入選した絵画の群れ。その頃のわたしにそれらの絵(安井賞)に入選した作品がどれだけ凄いのか想像がつく筈もなかった。ただ、先輩は長い間油絵を描いており、静岡市で開催されるコンテストに何度も入選、大賞を取っているので日頃から芸術について、特に絵画についてはよく話しを聞かせてくれた。100号を超えるキャンパスがぎっしりと並び、どの絵も特長があり圧倒される作品ばかりであったが、その中で最も注目したのが「放課後」と題されたモノクロ作品であった。美術館を後にして次に向かった場所は上野動物園。雨だったので園内には殆ど人影が見えず、のんびりそれぞれの動物をじっくり観察する事が出来た。ニュースではパンダが大人気で、「立ち止まらずに見てください」というアナウンスがしきりに流れていたが、全く人の気配がない動物園には時折鳥の鳴き声が雨音に混じって聞こえるだけだった。ガラス越しにパンダを見る。目と鼻の先、一メートルも離れていない距離に実に奇妙な生き物が横たわっている。まさにぬいぐるみだった。地球には人間がまだ知らない生物がきっと何処かで息を潜めて生息しているのかも知れない。パンダの動作があまりにも人間の赤ん坊に似ているため、もしかすると人間の祖先はパンダでは?などと思ったりした。生態系が破壊され、絶滅寸前の動物たちが今この地球上で悲鳴を上げている。それを救うのも人間次第。パンダを愛するように全ての生き物に優しい環境を作って行くのがこれからの人間の使命だろう。

温暖化 地球からとってみれば人類も一匹の蟻も同じ生物に変わりなく、共通点と言えば種族を絶やす事無く繁栄させる事だろう。しかしそれは自然と一体になっていなければならず、おもちゃ箱をひっくり返すように自然破壊を繰り返す人間に今更異常気象だ温暖化防止だの言ったところでもう手遅れかも知れない。地球はそれほどお人よしではなく、いつまでも人間のわがままに付き合ってはくれない。植物が酸素を供給し、その酸素によって我々は生きることが出来、その代わりに二酸化炭素を排出する。それを植物が吸収してくれるという、実に調和のとれた世界(理想)が出来上がっている。しかしながら人間の野望は大きすぎて、現実に起こりうるだろう未来の暗雲を振り払う事が出来ない。富を得るため人類は争いを起こしつつ文明を築きあげてきたが、その影で人間の手によって多くの自然破壊が頻発する。身近に温暖化の影響が起こり始めてから気付いても、もう元の地球には戻れない。氷山は悲鳴を上げ崩れ落ち、海面が徐々に高くなる。そして南国の小さな島は水面下へと消えていく。産卵場所が無くなった砂浜には海亀の涙が打ち寄せるだろう。地球も一個の命であり、必ず終焉がある。しかし人間の手によって地球の寿命を短くしてはならない。