プールサイドの人魚姫 -41ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-アンフェア

 ザックジャパンは金正日の貢物になった…。そんな異様とも思えるような感想を抱かせる試合内容だった。

 サッカー、ワールドカップブラジル大会アジア3次予選で、アルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表は、16戦無敗と言う破竹の勢いを引っ提げて臨んだ北朝鮮戦であったが、完全アウェーの洗礼に悩まされ持てる力の半分も出せなかった。

 それは平壌到着直後から始まっていた。4時間に及ぶ空港での足止めはまさに「軟禁状態」、選手たちが持ち込もうとしたガム、即席ラーメンなどが嗜好品だと判断され持ち込み禁止。入国審査や税関の検査で待機中に3回も停電するなどして、日本チームの公式練習開始が3時間も遅れてしまうなど、明らかに北朝鮮側の意図的な圧力があった事は明白であった。

 そのようなザックジャパンにとっては過酷とも思える状況の中で試合は始まった。実力から言えば北朝鮮を大きく上回る成績を残している日本代表であったが、5万の観衆全てが敵という「キムイルソン・スタジアム」の正気を失った殺気が日本チームを追い詰めて行く。

 北朝鮮にしてみれば、この日本戦のみに焦点を当てて臨んだアジア予選だった。日本に勝つ事、それのみが目標であったのかも知れない。

 それを裏付けるような北朝鮮が仕掛ける捨て身の肉弾戦と相まって、日本側は不慣れな人工芝のピッチにミスを連発。

 終始、北朝鮮有利の状況下で試合は進んだものの、身体を張った守備で何とか凌ぎ、前半を0-0で終えたが、完全アウェーのダメージは日本チーム一人ひとりの足元を確実に侵食して行った。

 後半戦開始5分、北朝鮮にフリーキックからの折り返しを頭で決められ1-0に…。日本側にも得点のチャンスは何度か巡ってきたもののそれを活かす事が出来ず、試合終了のホイッスルがスタジアムとザックジャパンの心に虚しく響いた。

 冷静なザッケローニ監督が顔を紅潮させ、身体を震わせながらこうつぶやいた。「アンフェアな北朝鮮…」。

 日本にとって不本意な初黒星ではあったが、これもまた未来を見据えたザックジャパンの一つの糧として捉えれば、意味の無い負けなど存在しないのである。

 それにしてもスタジアムの片隅に「よど号ハイジャック事件」で国際手配中の元赤軍派メンバーだった若林盛亮容疑者の姿があったのには少々驚かされた。

 北朝鮮にしてみれば彼の存在も、日本との交渉時に使用する単なる駒の一つに過ぎないという、金正日のしたたかさを垣間見た気さえするのだが。


プールサイドの人魚姫-オリンパス

 ニコン、キヤノンと肩を並べるカメラの名門オリンパス。最大の事業分野となった医療関連に於いては内視鏡分野で世界シェア75%を誇るなど、医療用の光学機器、顕微鏡分野で世界最大手となっているが、その背景にはオリンパスの物作りに拘る執念と高い技術力そして社員一人ひとりの並々ならぬ努力があったからである。

 今年10月1日にテレビ朝日系列で放映された『光る壁画』をご覧になった方も多いのではないかと思う。世界初の胃カメラ開発に情熱を傾け、最後まで諦めない日本人のその姿に勇気と希望を見出し、感動を頂いたばかりであった。

 それ故にオリンパスの『粉飾決算』という社会的事件は残念でならない。物作りの王道をそのまま真っ直ぐに歩み続けていればよいものを、強欲な経営陣の更なる利益追従の手段として金融商品までに裾野を拡げその結果バブル崩壊と共に数千億円の巨額損失を生みだす事となった。

 その損失隠しに利用した企業買収は、オリンパス自らが社長として迎えいれたマイケル・ウッドフォード氏の告発によって明るみになったが、その巧妙な損失隠蔽の手口はいまだ全貌解明までには至っていない。

 損失隠しが20年という長期にわたっているため、それに関わった複数のファンド、アドバイザー(助言会社)の存在が障壁となり細部の仕組みに至っては実に複雑であり、オリンパスの最終的ゴールが何処にあったのか謎はバブルのように膨らむばかりである。

 何れにせよ、オリンパスの行った不正経理はマネー・ロンダリング(資金洗浄)に間違いない事は確かであり、金融商品を投資ファンドに移し替える『飛ばし』も判明している事から、虚偽の情報開示が日本企業の在り方に世界が不信感を露わにしている事は、低迷する日本経済に追い打ちを掛ける大きな痛手となっている。

 企業経営のリスク管理について今更詳しく述べるつもりもないのだが、バブルの後遺症に悩み続けている企業はオリンパスだけではないだろう。

 その悩みを打ち明ける企業努力と勇気、そしてその適正な受け皿となる第三者機関や、コーポーレート・ガバナンスの確立が良質な企業運営や育成にとって絶対条件である事は言うまでもない。

 オリンポスの山々に住む神たちは人間に嘘を付く事を教えていない筈であるし、その名に相応しいオリンパスであった頃に立ち返って再スタートを切ってくれる事を真に望むところである。


プールサイドの人魚姫-ダウン

 法要、プチ同窓会、3泊4日の疲れが抜けない内に風邪を引いてしまい寝込んでおります。体力・気力回復までもう少し時間が必要かと思います。

 コメント頂いた方には必ず訪問致しますので、今しばらくお待ちくださいませ。

 

プールサイドの人魚姫-秋雨

 

 
 

秋の雨が降っている

うっかりしていると

気付かぬほど細心に

窓越しの景色は

早くも冬木立

少々の憂いに震えている

 

 

冷え込む想い出の窓際で

今は遠い夏空をはかる

少しばかりの悔恨に縁どられ

夏祭りのどさくさに

捨ててきたはずの東京が

ポケットの中にあった

 


プールサイドの人魚姫-金八

 大動脈弁は心臓にある4つの弁のうち唯一人間の弁を移植出来る部位である。ドナーから提供された肺動脈弁を移植する方法と、患者本人の肺動脈弁を移植するロス手術。

 更に開胸手術を必要としない、自己拡張型人工弁をカテーテルによって置換する方法もある。このカテーテル治療が適用される患者は開心術に耐えられそうにない高齢者向けである。

 先日ニュース等で話題になった武田鉄矢さんの心臓疾患「大動脈弁狭窄症」を簡単に説明すると、弁が十分に開かない心臓弁膜症の一種。原因には先天的障害、リウマチ熱、動脈硬化などが上げられる。

 武田さんの場合は10年ほど前、不整脈を切っ掛けに受けた心臓の検査で、生まれつき2枚しかない先天性二尖弁である事が判明したが、自覚症状もなく生活に支障をきたすような問題もなかった事から、当時は手術に至らなかった。

 但し、このまま放置しておけば狭窄症が進行し悪化する可能性が高い為、何れは手術する方向で主治医と相談しつつ準備を進めており、今回の手術が緊急的なものではなく計画的手術であったようだ。

 わたしが19歳の時に受けた弁形成術もやはり主治医と相談した上で、手術時期のタイミングと病気の進行度合いを計りながらの計画的手術だったと言える。

 武田さんの受けた手術については、上記に示したドナー或いは自分の肺動脈弁の移植を含めれば選択肢は3つあったと思われるが、武田さんの年齢(62歳)を配慮した結果、人工弁(機械弁)を選択したのだろう。

 仮に武田さんが若い女性で、更に将来子どもを設けたいと言う希望があったならば、医師は迷わず生体弁(豚弁)を薦めるだろう。

 生体弁の利点はワーファリン(抗凝固剤)を使用する必要がない事。欠点は耐久性が機械弁に比べてかなり劣り約10~15年で再手術が必要となる。

 人工弁はその耐久性が非常に優れており150~200年持つと言われているが、欠点として弁の部分で血液が凝固し、血栓が出来やすいため脳梗塞を引き起こす危険性を避ける為、ワーファリンを生涯服用しなければならない事である。

 武田さんの弁置換術に使用された人工弁はおそらく、わたしが1989年4月三井記念病院で受けた僧帽弁置換術の時と同種のSJM弁(セント・ジュード・メディカル社製)ではないかと思われる。

 このSJM弁は現在最も普及している人工弁で、パイロライト・カーボン(黒いダイヤモンドと呼ばれている)という材質(人工炭素)で出来ており、優れた性能と耐久性を備えた世界基準の人工弁と言っても過言ではない。

 わたしの中に装着された人工弁は今年23年目を迎えたが、弁自体は至って元気である。2009年9月2日に公開した「狭心症とカテーテル治療」の動画で人工弁の動く様子が明確に分る。左心房は肥大したままであるが、血液の逆流は無くなった。

 然しながら、余りにも長い期間心臓を患ったため、思わぬ心臓疾患が牙を向き始めた。三尖弁閉鎖不全は仕方ないとしても、最もわたしを悩ませている疾患が「収縮性心膜炎」。この件についてはこれまでにも何度か記事にしてきたのでご存じの方も多いと思うが、この心臓疾患は進行性であり現状のままでは悪くなる一方である。

 根本的治療は手術しか手段はないのだが、内科医も外科医も手術を薦めようとしない。3回目の手術がどれほど危険であるか、手術したとしても高いQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を約束出来ない事など手術に於けるリスクが高すぎる事から、敢えて危険を冒すよりも現在の状態を薬で維持して行く事の方に力点が置かれている。

 治る見込みのある病気なら我慢もするし希望も持てるのだが、悪くなるばかりの病気と付き合って行くのは正直しんどいだけである。

 然し、希望が全く無い訳ではない。希望など待っていても向こうからやって来るものでもないし、自分から作り掴み取るものだと思っている。その手助けとして医療というものが存在するのだから、取り敢えずは生きている自分に感謝する事である。

 但し、もうこれ以上薬が増えるのだけは御免こうむりたいと言うのがわたしの本音なのだが…。


プールサイドの人魚姫-カダフィ

 「武力によって得た権力は武力によって奪われる」これはいつの時代も何処の国にも言える事であり、リビアに限った事ではないが、独裁者の末路はいつの世も同じ運命を辿るものである。

 中東の暴君「カダフィ大佐」(ムアマル・アル・カダフィ)は、何故大佐と呼ばれてきたのだろうか。彼は1942年9月、リビアの遊牧民カダファ族の1人として生まれた。

 アラブ民族主義に傾倒し、1952年のエジプト革命後に大統領となった「ナセル陸軍大佐」の思想に共感、1969年9月リビアに於いて無血クーデターにより、リビア国内を掌握し以後、リビアの最高指導者として42年と言う長きに亘り君臨する事となる。

 肩書については、自分の尊敬する人物である「ナセル大佐」に憧れ、1979年から自らをカダフィ大佐と名乗り始めたようで、それ以前は陸軍大尉であった。

 カダフィ政権崩壊のシナリオは、チェニジアそしてエジプトの革命(2011)から始まった。30年近くに亘る独裁政権を維持して来たムバラク大統領に対する反発の波が押し寄せ、ツイッターやフェイスブックといった、近代のネットワーク技術を駆使した若者たちによる新たなムーブメントが、歴史を大きく塗り替える事となる。

 後に「アラブの春」と呼ばれるその民主化の波は留まる事を知らず、中東・北アフリカ全土に飛び火し、リビアもまたその渦の中に飲み込まれて行った。

 リビア北東部の反体制デモを切っ掛けに、約8ヵ月リビアは事実上の内戦状態となる。カダフィ支持派による民間人への武力弾圧が激化する中で、国連によるリビアへの非難声明はNATOやEUのカダフィ政権即時退陣に発展。第二のイラク戦争という最悪のシナリオを描き始める事となり、その結果、NATO軍の軍事介入へ移行、人道的立場という名目でリビアへの空爆が始まった。

 NATO軍の援護を受けた反カダフィ派と徹底抗戦を呼び掛けるカダフィ大佐の下、その支持派との激戦が連日連夜続く事となり、一進一退の攻防が両者の間で繰り広げられた。

 カダフィ大佐の重要拠点であったリビアの首都、トリポリの陥落はカダフィ政権崩壊を事実上決定付ける事となったが、それでも執拗に徹底抗戦の構えを崩さないカダフィ派は日に日に追い詰められて行き、やがてカダフィ大佐自身の国外逃亡説まで浮上し始め、リビア全土をほぼ掌握した反カダフィ派の勝利宣言が銃声とともに街の至る所で鳴り響いていた。

 それは、カダフィ大佐の姿を見ぬままにリビア内戦が終わりを告げると思われていた矢先の事だった。その日トップニュースで流れた「カダフィ大佐死亡」の一報により、リビアを暫定統治する国民評議会(NTC)はリビア全土解放を宣言。

 カダフィ大佐は自分の出身地であるシルトで、下水管の中に隠れていた所を反カダフィ派によって発見、拘束されたがその後に死亡。死因は銃撃戦による頭部に受けた銃弾とされているが、その真実はいまだ明らかにされておらず、民兵による「処刑」だったのではないかとの見方も強まっている。

 戦場における兵士たちの感情、特に抑圧され続けて来た人間から見れば、最も憎しみの強い対象と出会った時、殺害してしまいたいという感情に自分が支配されてしまう事は理解出来ない訳ではないが、統率力に欠ける民兵一人(或いは複数)の判断だけで殺害に及ぶという行為そのものは、カダフィ大佐のやってきた事とそう大差ないのである。

 オサマ・ビン・ラディンが米軍の手によって殺害された時と同じで、この結末を望んだ者はそう多くはないだろう。然るべき場所で法的処置を経てその後に死刑となるのであれば、筋の通る話であるが、民主主義という土台を持たない国の愚かさが垣間見えた気がしてならないとともに、実に後味の悪い結果であった。

 カダフィ無き後のリビアには内戦の傷跡が至る所に残り、リビア民主化の行方は全くの未知数である。旧政権の離反組、都市住民、部族勢力、イスラム勢力といった、寄り合い民族の国作りが如何に前途多難であるかは想像がつく。

 内戦により兵器を手にした各部族などによる新たな権力争いも起こるだろうし、石油を巡る資源争奪戦も懸念される。

 リビアが第二のイラクやアフガンにならぬよう、国際社会が一致協力して支援の手を差し伸べなければ、民主化の道は遥か彼方に遠のくだけである。

 

プールサイドの人魚姫-難破船

 

 
 

何処から流れ着いたのか

行くあてもない

難破船がひとつ

暗い海の真ん中で

声を上げても届かない

波がすべてを遮るから

行方知れずの

難破船がひとつ

ひとり残らず消えた海

魚の群れに拾われて

波間に漂う

難破船がひとつ

懺悔の海には

もう 戻れない

 

 先日アップしました「フェンスの向こうのアメリカ」の記事内容について、勇樹の母親が前妻の事だと勘違いされている方がいるようです。

 これにより3年前に離婚した前妻がかなり精神的にショックを受けております。誤解を招くような記事内容を書いてしまい大変申し訳ありませんでした。

 勇樹の母親はわたしが32年前に離婚した前々妻である事を改めて告知するものと致します。前妻とは離婚後もスムーズに意思の疎通が出来ておりましたが、わたしの配慮の無さが一人の女性を大きく傷つける結果となってしまいました。

 今回の事でネット上の恐さを改めて痛感しております。自分の記事を誰が何処でどの様に解釈し、それが原因で想像もしていなかった事が起こってしまいます。

 前妻との約束を何度も破ってしまった事、この場を借りて心よりお詫び致します。



 日本の音楽シーンからまた一つ星が消えた。8月7日に肺癌のため死去した「ジョー山中」の時と同様に、柳ジョージの訃報は一ファンとして耐え難いものであった。
 無類の酒好きが祟ったのだろうか、糖尿病を起因とする腎不全でこの世を去ったが、その酒とステージでギターを奏でる風貌がファンの目にはエリック・クラプトンの姿とだぶったのかも知れない。
 1978年にシングルカットされた「雨に泣いている」が大ヒットし、柳ジョージ&レイニー・ウッドがブレイクする切っ掛けとなった。
 1979年に発売された4thアルバム「RAINY WOOD AVENUE」はオリコンアルバムチャート初登場1位を獲得し、このアルバムからシングルカットされた「スマイルオンミー~微笑みの法則~」は資生堂のCMソングになり大ヒット。
 立て続けにヒットを飛ばす彼であったが、その下積み時代は実に長い。「雨に泣いている」がヒットする以前には萩原健一のバックバンドをしていた事もあったと聞いている。
 彼の音楽の出発点はブルースではなくフォークであったが、アマチュア時代に日本各地に点在する米軍キャンプを巡り米兵相手に演奏していた。おそらくそのような環境の中でブルースが柳ジョージの音楽として積み上げられていったものと思われる。
 1979年3月に発売されたアルバム「Y.O.K.O.H.A.M.A」がわたしと柳ジョージの架け橋になっているが、その当時わたしは実に荒れた生活を送っていた。
 息子の勇樹は1歳半で風邪をこじらせ、肺に膿が溜まり片方の肺が完全に潰れていた。前々妻とは既に離婚していたので息子の面倒は彼女が見ていたのだが、仕事が忙しいのを理由に息子を夜遅くまで保育所に預けっ放しという状態で、午前0時を過ぎても帰って来ない母親の代わりに、わたしが保育園に引き取りに行ったりしていた。
 母親と息子が住んでいた六畳一間のアパートは日中でも陽が射さず、湿気を帯びた部屋の空気と引きっ放しの薄い布団、全く片付けようとしないゴミが部屋中に散乱し、とても幼い子どもを育てる環境ではなかった。
 オムツさえも変えて貰う事がなかったのか、尿で濡れたままの冷たいオムツに泣いて訴える事さえしない勇樹はわたしの顔を見るなり笑顔で抱きついて来た。
 身体も熱っぽいし通常の風邪とは様子の違う咳を何度も繰り返していたが、それでも病院へ連れて行こうとしない母親の態度に業を煮やし、その日の仕事を休んで勇樹を近くの小児科へ連れて行った。手の平に収まってしまうほどの小さな胸のレントゲンを見るなり、医師は直ぐに設備の整った病院へ行けと命令口調で言った。
 息子の身体に何が起こっているのか全く予想も付かなかったが、医師の態度でそれが尋常でない事だけは理解出来た。
 母親の仕事先に電話を入れ、事情を話し直ぐに帰って来るように伝えると、彼女は仕事先の車を借りて駆け付け、二人で既に医師から連絡済みの静岡市立病院(わたしが最初の心臓手術を受けた病院)へと勇樹を運んだ。
 後になって分った事であるが、借りた車は彼女が当時結婚を前提に付き合っていた男の車であった。そして勇樹は自分の子どもではなく姉の子どもだと男に伝えていたのである。
 息子の背中に残っている大きな傷跡はその時に受けた肺の手術痕。わたしと勇樹と母親とそしてその男を巡って一生分に匹敵するほどの一年を送り、疲れ果てたわたしは自分の住んでいた大浜海岸に程近い環境に恵まれたアパートを勇樹と母親に荷物丸ごと譲り、静岡を立ち去ったのである。
 「フェンスの向こうのアメリカ」はそのアルバムに収録されている曲でわたしのお気に入りであるが、1982年に日本に返還された横浜の本牧ベースキャンプが舞台となっている。本牧の金網のフェンス越しに見えるアメリカ。
 わたしにとってみれば、二度と戻るものかと自分の中にフェンスを張り巡らし、静岡での想い出を封印した積りだった。
 捨てた筈の自分の過去と静岡、この曲を聴くと思い出してしまう当時の故郷であるが、23年振りに再会した父と子の間にあのフェンスはもう必要なかった。

PS:息子のブログは↓こちらです。
http://ameblo.jp/semiramis/


プールサイドの人魚姫-損害

 黒く塗り潰された薄っぺらの「事故時運転操作手順書」とは全く真逆で対照的だった原発事故に伴う損害賠償の請求書は約220ページにも及び、まるで迷路に迷い込んだが如くに複雑極まりない内容で、被害者個人のレベルでは到底理解出来ず、弁護士などの専門家に依頼しなければ杳として先に進めぬ状況であった。

 被災者から「内容が分かりづらく煩雑」と多くの苦情が東電に寄せられ、枝野経済産業省が東電に対し改善命令を出し、その結果東電は新たにA4版4ページに纏められた「ご請求簡単ガイド」を作成し、今月12日から被災者当てに発送を開始している。

 自社の損益を出来るだけ低く抑え込もうとする東電の狡猾な企業体質が又しても浮き彫りになり、被災者の請求意欲を削ぎ落す為だけに作られた、まさにカラクリだらけの損害賠償請求書である。

 簡易版ガイドは出来あがったものの、60ページに及ぶ記入用紙はそのままであり簡素化にまでは至っていないことから、記入内容が複雑なのは依然として変わらず、法律などの専門家に頼らなければ、記入項目の全てを埋める事は難しい。

 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ではないが、原発事故発生から7カ月も経過しており、被災者の中には事故発生時の苦痛や痛みが時の経過と共に薄くなり、分厚い書類を送られても今更、それに目を通し書く気にもなれないと言う、ある種の諦念を抱いてしまっている人達も多いのではないだろうか。

 然しそれは東電の思う壺に嵌ってしまう事でもあり、被災者の立場を鑑がみない東電の東電による東電の為の損害賠償という図式が出来上がってしまっているのである。

 それを裏付けるように、発送された書類約6万通の内、返信は7600通、賠償が支払われたのは現時点でわたしが把握しているだけでたったの6件である。

 いつの世も泣き寝入りするのは一般市民…国は国民の味方ではなく、常に企業寄りであり、電力会社と政府の癒着は依然として継続中である。